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	<title>D Think Lab</title>
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	<description>Keio Media Design (KMD), KEIO University</description>
	<pubDate>Sun, 03 Jan 2010 21:56:50 +0000</pubDate>
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		<title>修士論文の構成　第2章をどのように書くか</title>
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		<pubDate>Sun, 03 Jan 2010 21:50:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

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		<description><![CDATA[				1月3日
				修士論文の構成　第2章の書き方 
				論文を書く作業は、論文のメッセージはなにか、そのメッセージを伝えたい人はだれか、を考える。そして、そのメッセージを思いつく過程を書き（思いつくまで、つま [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p><strong>1月3日</strong></p>
				<p><strong>修士論文の構成　第2章の書き方 </strong></p>
				<p>論文を書く作業は、論文の<strong>メッセージ</strong>はなにか、そのメッセージを<strong>伝えたい人</strong>はだれか、を考える。そして、そのメッセージを<strong>思いつく過程</strong>を書き（思いつくまで、つまりは<strong>アブダクション</strong>）、そのメッセージを<strong>証明できる形に変形</strong>し（<strong>仮説構築、プロトタイプ構築、概念枠組み構築</strong>）、それを<strong>証明</strong>する。（<strong>演繹法、帰納法、仮説演繹法、アブダクション</strong>などの手法を使う）。そして証明した仮説の意味を<strong>考察</strong>して終了。これは学会論文だろうと博士論文だろうと修士論文だろうと同じである。この流れが<strong>論文の構成の核</strong>になる。</p>
				<p>したがって</p>
				<p>第1章：主題の説明、なぜその主題を選んだか、その主題をコンセプト（仮説、プロトタイプ）に置き換える。その概要と証明した結果、それが社会に及ぼす影響、などを書く。<br />
				第2章：関連研究レビュー<br />
				第3章：コンセプトをおもいつくまでと思いついたコンセプトの提示。<br />
				第4章：コンセプトの詳細の説明<br />
				第5章：コンセプトの証明<br />
				第6章：今後に向けて</p>
				<p>になる。第4章、第5章は選んだ主題とその説明方法によって構成はことなってくる。</p>
				<p>さて、<strong>問題は第2章</strong>である。論文はテーマがきまった段階で<strong>Working　Bibliography</strong>を作る。関連する研究をとにかくなんでもあつめて文献リストを作るのである。出来るだけ早い段階で作り始めないといけない。そのリストの中から必要な文献を選び出してレビューをする。この作業がなかなか大変である。博士論文を執筆する学生は論文や研究書を正確にレビューするという訓練が必要になる。これにははやくて3ヶ月。普通は1年。研究に必要な能力（英語を<strong>critical reading</strong>する）という能力がなければその訓練が必要なので2年かかる。だが修士論文ではそこまで要求はしない。</p>
				<p><strong>レビュー</strong>とは論文をまとめることであるが、<strong>サマリー</strong>ではない。論文が何をいっているか、どのような論理的な流れで説明しているか、その説明に使っている事例は何か、といったことを適切に<strong>パラフレーズ</strong>する。で闇雲に行っていたのでは時間がいくらあっても足りない。そこで、自分の研究分野のテーマに沿った形でレビューをすることになる。だが自分が何をどのように考えてどのように証明したかは終わってみないと分からない。なので、論文の場合は<strong>第2章は最後に書く</strong>ことを薦める。（また第一章の仕上げは第2章を仕上げた最後になる。着手は最初だが）文献リストは最初に作る。必要な文献は読む。読書メモは作る。だが、第二章を執筆するのはまだ早い。</p>
				<p>第2章は関連研究の紹介であるが、なぜこの本や研究論文が、自分の修士論文を書くために必要だったかを書くことが必要である。論文は<strong>オリジナリティ</strong>が必要だと言われる。だがこのオリジナリティは自分が研究する領域に<strong>貢献</strong>するあたらしいことであって、<strong>自分だけで定義できるものではない</strong>。ここを間違ってはだめである。したがって、第2章の論述の仕組み、つまり<strong>rationale</strong>は</p>
				<p><strong>１）自分の研究領域の明言</strong></p>
				<p>ぼんやりとした領域を説明するだけではなくて、ある特定のところにピントを合わせておかなくてはいけない。これを<strong>フォーカライゼーション(Focalization)</strong>という。だが、実際にコンセプトを論証した後でないとピントがあった研究領域は決まらない。論証は演繹法だけで済む場合はほとんど無い。アイデアを何故か思いついてしまう。その実現可能性を演繹法で証明した後、その有効性を帰納法で証明する、といった流れになることがある。ということは証明してみないと分からないことが多い。なので、文献研究は研究着手と同時に始める(これを<strong>preliminary reading</strong>という)が、関連研究の紹介をするのは証明終了後がいい。いずれにしても、具体的に自分の研究領域はこれだと明言することが必要である。</p>
				<p><strong>２）関連研究の選択</strong><br />
				すでに文献リストに挙げてあり、場合によっては読んである論文や書籍を選択する。学術論文の場合は論文を中心にリストを構成する。もちろん書籍も入るがその扱いは意外と難しい。論文以外の資料も必要だが、それは参考にしたという程度でいい。また<strong>第一次資料と第二次資料の区別</strong>もつける。第一次資料は自分がおこなったフィールドワークの民族誌や実験の結果などである。これは<strong>第三章</strong>のデータだ。だが<strong>人の行った調査や実験は第2章で言及</strong>しておかなくてはならない。</p>
				<p><strong>３）選択した先行研究のレビューを行う。</strong></p>
				<p>という流れになる。で<strong>レビューとは自分のオリジナリティを説明する場所</strong>である。ではそれは何か？一言で言えば、自分の研究分野を研究しているコミュニティ（学会のことだ）になにか<strong>新しいことを貢献する</strong>ことである。新しいことはなんでもいい。新しい資料の発見でも、新しい理論の発見でも、その組み合わせでもいい。では、<strong>どのようにこの貢献を説明するのか</strong>？それには戦略があるのである。以下にその手順を説明したい。</p>
				<p><strong>ステップ１：</strong>研究するために必要なことは知っていると明言する<br />
				基本となるいくつかの文献を簡単に紹介する。まあここは簡単であると共に、論文の主査副査と世界を共有する作業であって、基本書はこのくらいで、その本の名前と主張は知っていますよ、くらいのレベルでいい。ここは簡単だが、ここを間違えると、あとの議論が台無しになるので慎重に、いろいろと周りの人に質問して基本的な論文や研究書をリストアップしよう。「え、こんな基本もしらないの」といわれてしまっては先に進まなくなる。</p>
				<p><strong>ステップ２：</strong>研究を実行するために本当に知っていなくてはいけない論文や研究書を「このくらいまで」しっかりと知っていると明言する<br />
				ここが非常に難しい。<strong>先行研究紹介を批判</strong>だと思いこんでいる学生がほぼ１００％である。だが先行研究紹介ではよほどのことがない限り<strong>批判しない</strong>。よほどのこととは、その論文の主張をたたきつぶさないと自分の理論が前に進まないときである。そうでないときは批判しない。「じゃあいやな論文とか気に入らない論文はどうするのですか？」という質問を受ける。答えは簡単だ。そのような論文は先行研究でレビューしなければいい。先行研究紹介とは、ピントが合っている自分の研究主題についてすでに論じている人の研究を紹介することである。いま論じようとしている主題はかつて、どのような論理でどのような例をつかってどのように論じられてきたか、を<strong>論理と事例は論文の作者に準拠して、自分の文体で書く</strong>。これをパラフレーズという。パラフレーズは論文を書く方法の極意だ。<br />
				こうしていくつかの主要な論文や研究書を自分の解明したい主題に焦点をあてて、<strong>パラフレーズ</strong>する。自分の主題に関する先行研究だけではなく、<strong>証明の方法論</strong>に関しても先行研究としてパラフレーズする。また<strong>理論</strong>についても、その<strong>応用分野</strong>に関しても、<strong>自分の研究主題の焦点</strong>にはいってくるようにパラフレーズしていく。先行研究紹介とは、専攻研究者の研究業績を<strong>最大限に利用</strong>することなのだ。ここを肝に銘ずる。</p>
				<p>学問は先行研究をいくら利用してもいい。<strong>引用</strong>が重要視され、<strong>盗用plagiarism</strong>がもっともいけないこととされる。だが、<strong>中身は同じ</strong>だ。人の研究を利用している。だが、<strong>誰の研究かを明言しないで利用すると、盗用</strong>であり、<strong>明言すると引用</strong>である。引用の頻度と引用先の評価が学問の価値であり、盗用すると研究職を辞さなくてはならない。このメカニズムをぜひ理解して欲しい。つまりいくらでも先行研究は利用する。いくら利用してもオリジナリティは傷つかない。ここはアカデミズムの訓練をうけてみないとわからないところだ。誰の意見かを明言すると「業績」になり、しないと「盗用」になる。修士論文の第2章としては、自分の研究テーマに関する論文を複数、しっかりとパラフレーズして、引用先を明記すればいいだろう。</p>
				<p><strong>ステップ３：</strong>第2章を書く<br />
				さて、いよいよ第2章の執筆である。まず、自分が証明したいと思っているコンセプト（あるいは仮説、プロトタイプ）を<strong>アカデミックコンテキストに着地</strong>させる。これが第2章のゴールである。したがって、自分のコンセプトがいかにつくられたか、そしてどのように証明されるかの流れを明確にして、その流れで読み手が当然質問するであろうことに答える形で書かれていなくてはならない。ちょっと分かりにくい表現になったが、ようするに、なぜそのテーマを研究主題にえらんだのか、どうしてその方法で証明しようと思ったのか、を自分の意見ではなくて、先行研究のレビューの形で説明されていなくてはならない、ということである。つまり<strong>自分の研究のratinaleの意味</strong>を他の研究をレビューしながら語るのである。</p>
				<p>その大枠を提示しておこう。びっくりするくらい簡単だ。コンセプト１はコンセプト３よりすぐれている。なぜならコンセプト１はコンセプト２よりすぐれており、コンセプト２はコンセプト３より優れているので、コンセプト1はコンセプト３よりすぐれている。この<strong>形式論理の枠組み</strong>をあたまにおいて、具体的に展開していく。<br />
				まずコンセプト1はコンセプト2よりもすぐれているということを説明している先行研究のレビューを行う。次にコンセプト２がコンセプト3より優れていると言うことを説明している証拠となる先行研究をレビューする。そしてコンセプト１はコンセプト３より優れているという仮説を提示する。またそれと同時に自分が選択した証明の方法論についても説明する。たとえば、<br />
				<strong></strong></p>
				<p><strong>コンセプト１</strong> 利用者の無意識行動を利用した町歩きガイダンスは<strong>コンセプト３</strong> 利用者の意識的な情報（好みとか消費者属性）を利用した町歩き情報提供よりすぐれている。<br />
				なぜなら<br />
				<strong></strong></p>
				<p><strong>コンセプト２</strong> 利用者の無意識行動が利用者の行動のパターンを説明する　という考えはコンセプト３よりより深いレベルで人々の行動を説明することが知られている。<br />
				このパターンを知るためには<strong>集合知</strong>、<strong>ベイズネットワーク</strong>といった処理をする特別のサーバーが必要になる。これらがかつようできれば、<br />
				コンセプト１はコンセプト３よりも優れている。<br />
				となる。この流れに沿って先行の研究をレビューしていけばいい。研究Aではこのように説明しています、研究Bではこのように説明しています、と記述を重ねていくと、自分の研究したい領域のなかですでに研究されて分かっていることと、<strong>まだ研究されていないところ</strong>が見えてくる。それは<strong>方法論</strong>かもしれないし、<strong>あたらしいデータ</strong>かもしれない。それを明確に定義して、そこを研究すれば<strong>オリジナリティのある研究</strong>が出来ることになる。</p>
				<p>つまり第3章、第4章、第5章（必要なら）の流れが確立していると、第2章を書くことは非常に易しくなると同時に、自分の研究がなにに貢献するのかが明確になる。この方法で第2章をまとめていこう。終了まであとすこしだ。くりかえすが、研究のrationaleにそって、必要な先行研究を選び、その研究がおこなったことを説明し、やりのこしたことを明確にして、自分の研究がそのやり残したことを行う、という形で説明をする。これがアカデミズムあるいは学会への貢献となる。<strong>貢献できるか出来ないかがオリジナリティの基本</strong>である。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>大人の英語講座　番外編　第二言語習得論</title>
		<link>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20100101/881/</link>
		<comments>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20100101/881/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 31 Dec 2009 16:24:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

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		<description><![CDATA[				2010年1月1日
				外国語教育はどこまで科学的に証明されているか
				外国語の教授法は現代言語学とその背後にある哲学の変遷に深く関わっている。大人の英語講座では三つの段階をへて学んでいく。音声から文法 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p><strong>2010年1月1日</strong></p>
				<p><strong>外国語教育はどこまで科学的に証明されているか</strong></p>
				<p><strong>外国語の教授法</strong>は<strong>現代言語学とその背後にある哲学の変遷</strong>に深く関わっている。大人の英語講座では三つの段階をへて学んでいく。<strong>音声から文法、そして読解つまりは意味</strong>。これは現代言語学が人間の言語活動の仕組みを明らかにしてきた流れと一致している。<strong>構造言語学</strong>から<strong>生成文法</strong>へ、そして<strong>認知言語学</strong>という流れだ。現在<strong>ピッツバーグ大学言語学科教授</strong>で<strong>言語習得論</strong>の専門家である<strong>白井恭弘</strong>氏が<strong>『外国語学習の科学：第二言語習得論とは何か』『外国語学習に成功する人、しない人』</strong>でこのあたりをまとめながら、どのように外国語を学んでいけばいいかを科学的に説明しているので、パラフレーズして紹介しておきたい。</p>
				<p>あと<strong>奥出直人のジャズ的生活</strong>のblog ”５５歳から３カ国語を学ぶ”で白井氏の本を読むまでの段階のまとめをしているので紹介しておく。また繰り返しになるがこのblogからの文章も再録しながら話を進めていく。<br />
				<a href="http://okudenao.exblog.jp/13294511/">http://okudenao.exblog.jp/13294511/</a></p>
				<p>まず現代言語学登場以前における外国語学習の伝統的な方法は<strong>Grammar-Translation Method</strong>で、文法を覚え、単語を覚え、外国語を母語にして、母語を外国語にする。この方法が批判されたのはなぜなのか？まあ一番簡単な理由は話せるようにならない、だろう。そこで<strong>Natural Method</strong>（ナチュラル・メソッド）という方法が提案された。母語を学ぶように外国語を学ばせようとするものだ。有名な方法は、<strong>ベルリッツ (Maximilian Berlitz)</strong>で、ヒアリングを徹底して教えてからスピーキング、リーディング、ライティングへと入っていった。だが、いくら聞いても大人は聞こえるようにならない。大人はいくら聞いてもしゃべれるようにはならない。</p>
				<p><strong>構造言語学の時代：音の解明</strong></p>
				<p>伝統的な文法訳読法に変わって、ナチュラルメソッドあるいは直説法が採用された背景には<strong>ローマン・ヤコブソン</strong>による<strong>構造言語学</strong>がある。構造言語学は人間が音をつかってコミュニケーションする仕組みを<strong>音韻</strong>という概念をつかって明らかにした。<strong>対立するペアの組み合わせ</strong>が<strong>音の文法体系</strong>を構築している。音の形態を研究していた音声学から<strong>音韻論</strong>へと踏み出したのだ。音に関しては構造言語学の発見は間違っていない。</p>
				<p>伝統的な方法では超えられないしゃべれるようにならないという問題を改善しようとした方法が<strong>Audio-lingual Approach </strong>（AL法、オーラル・アプローチ）、いわゆる<strong>ミシガンメソッド</strong>である。20世紀初頭における構造言語学と行動心理学を後ろ盾として、<strong>C. C. フリーズ(Fries)</strong>によって体系化された。<em><strong>Teaching and Learning English as a Foreign Language </strong></em>by Charles C. C. Fries: Pub. Date: January 1945が有名な本だ。彼が準拠した構造言語学では言語を本質的に音声であり、音、語、文の「型」によって構成されると考えている。また、当時はやっていた<strong>行動心理学</strong>では習慣は刺激に対する反応の繰り返しによって形成されるとされていた。なので、これら二つの考え方を基礎として<strong>パターン・プラクティス</strong>を組み立てた。　パターン・プラクティスとは、例えば「私は本が好きです」、という文に対して指導者が「りんご」などのキューを与え、「私はリンゴが好きです」といった文に変形させる、とＷｅｂで説明があった。学習者は自動的かつ即座に正しい英文が出てくるまで繰り返し練習する。いまでも出版されている<strong>『アメリカ口語教本』</strong>などがこの方法を使っているが、退屈で続けるのが大変。</p>
				<p>またパターン学習で本当に表現が出来るようになるのか、という本質的な疑問もあるという。Wikipedia「英語教育」から引用すると、「具体的には、教える側は正しい文の模範を提示し、学ぶ側はそれを復唱する(<strong>模倣: Mimicry-Memorization</strong>)。次に教師は新たな単語を生徒に提示し、生徒はそれを用いて同じ構造の文章を作ってみる(<strong>代入:Substitution</strong>)。AL法では（ダイレクトメソッドでは）、明示的な文法の解説は行われず、単純に「型」(パタン:Pattern)の記憶という方法が用いられる。<strong>パタン・プラクティス(Pattern Practice)</strong>と呼ばれる特定の文構造の練習は、それを自動的に用いることができるようになるまで続けられる。この方法では、授業は一定の反復練習に基づいて行われ、学習者が自分から自由に新しい言語パタンを生成するような機会は方法論的に忌避される。教師は言語ルールに基づいた特定の反応を期待しており、生徒が否定的な評価を受ける結果をもたらしてしまうような働きかけは行わない。」とある。</p>
				<p>演繹的方法でだめだからといって、徹底的な帰納法で教えようとする。実はフランス語はアテネ・フランセなど語学学校で学ぶと直説法である。また大学では、今は知らないが、僕が大学生だった頃（35年くらい前。時間が過ぎるのは早いね）は上智大学が直説法で教えていて学生はあっというまにしゃべれるようになっていった。（がそのあと、すぐ忘れちゃうんだよね、と上智で学んだ人が言っていた。）だが、それは本当に表現をしていたのだろうか。</p>
				<p><strong>生得文法の時代：文法の解明</strong></p>
				<p>構造言語学の方法を文法にまで進めたやり方は、<strong>ノーム・チョムスキー</strong>の<strong>生成文法</strong>の登場によって徹底的に批判された。彼は子供が言語を習得することが出来るのは<strong>生得的知識（普遍文法）</strong>があるからだとした。この理論を第２言語習得に適応したのが、７０年代から８０年代に盛んだった<strong>インプット仮説</strong>で、提唱したのは<strong>スティーブン・クラッシェン</strong>である。ただひたすらインプットを繰り返していると、あるとき突然表現が出来るようになる。この仮説はかなり乱暴なようだが、<strong>聴解優先教授法（comprehension approach）</strong>とか<strong>全身反応教授法（Total Physical Response-TPR）</strong>という教え方がこの仮説のもとに作られた。詳しくは白井氏の著書を参考にしてもらいたいが、<strong>大量のインプットを行う</strong>ことで、文法能力が形成され、理解が出来るようになるとするのである。</p>
				<p>この方法はチョムスキーが主張するように<strong>演繹的な方法</strong>である。文法というとパターンの暗記という機能法的なやりかたがいまの英語教育、とくに高校、さらには受験校の英語教育の特徴だろう。この方法の問題が実行されている現場は、<strong>生徒は緊張し、暗記を強いられる</strong>。ほとんどのTOEFLやTOIECの準備もそうだ。それにたいして、インプット仮説では、とにかく<strong>大量にインプットを続けて、心の中に文法能力が育つまで待つ</strong>。人間は無意識に習得することが非常に多い。ひたすら見る、ひたすら聞くという作業が高度な能力の習得には必要なことはよく知られている。<strong>学習する知識は習得したことが正しいかどうかをモニターするだけ</strong>、だとする。</p>
				<p>クラッシェンのインプット仮説に対して、<strong>自動化モデル</strong>という考え方がある。この考え方はスキルは最初は意識的に学習され、何度も行動を繰り返すうちに自動化し、注意を払わなくても無意識的にできるようになる、というものである。</p>
				<p><strong>認知言語学の時代：意味の解明</strong></p>
				<p><strong>構造言語学派</strong>も<strong>生成文法派</strong>も言語の形式をとらえようとした。それにたいして<strong>カリフォルニア大学</strong>の<strong>レイコフ</strong>たちが70年代に<strong>認知言語学</strong>を提唱した。Wikipediaによると、「認知言語学 (にんちげんごがく) は、ゲシュタルト的な知覚、視点の投影・移動、カテゴリー化などの人間が持つ一般的な認知能力の反映として言語を捉えることにより、人間と言語の本質を探究する言語学の一分野。統語論を中心とする生成言語学（生成文法）に対して認知言語学は意味論の研究が盛んに行われているため、認知意味論と言われることもある。近年、認知意味論の中でも、平面的な共時性を重視する認知言語学の特性に対し、通時的観点をも取り込んで空間的に語句の意味変化を明らかにしようとするメタ・プロセスの理論も現れている。」とある。</p>
				<p>外国語教育において、この方法は<strong>音、文法から意味にという変化</strong>を引き起こししていく。しかし、もっと大切なことがある。それは<strong>学習の主体が学習者に移った</strong>と言うことだと、白井氏は述べる。西洋の言語において、音声は単純な法則を利用して非常に論理的なシステムを構築しており、その仕組みを身体に学習させることで音声を通じたコミュニケーションが出来るようになる。だが<strong>文法はそのような単純なレベルのシステムではない</strong>。したがってパターンプラクティスをいくら繰り返しても文法能力を本当に身に付けることは難しい。文法能力に関しては、かつての文法学者が考えたような仕組みを想定して演繹的に考えた方が説明が付く。だが<strong>その仕組みは学習しても身につかない</strong>。大量のインプットをあたえて、人間の心に「言語能力（文法）」を習得させる必要がある。白井氏はいくつかこうした例を紹介している。<strong>文法に関してはインプット仮説は正しそう</strong>なのだ。</p>
				<p>だが我々の言語活動は音と文法だけで成り立っているわけではない。<strong>意味が存在している</strong>。文学の翻訳などをおこなっている研究者であれば意味が存在していることに目をつぶることはできない。生成意味論は言語活動を十分に説明することは出来ない。意味は生成文法のようなメカニズムから生まれてくるのではなく、人間の身体性に深く関係しているらしい、と認知言語学は考えたのだ。</p>
				<p>ここまでをふまえて<strong>Communicative Approaches（コミュニカティブ・アプローチ）</strong>を考える必要がある。これは欧州評議会の提唱する「ヨーロッパの成人学習者のためのコミュニケーションに必要なシラバスに基づく教授法」であり、コミュニケーション能力を次のように定義して学ぶことを提唱している。<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Communicative_language_teaching">http://en.wikipedia.org/wiki/Communicative_language_teaching</a>によると、</p>
				<p>１）文法力(grammatical competence)：文法的に正しい文を作る力<br />
				２）社会言語能力(sociolinguistic competence)：社会的な事象（身分、上下関係など）をふまえた文を作る能力<br />
				３）談話能力(discourse competence)：論理的な文の流れを作る能力<br />
				４）戦略的能力(strategic competence)：状況に合わせて表現を変えていく能力。</p>
				<p>「この方法はいま非常に人気があって、大学の語学教育再編というとすぐこれになるが、僕は非常に懐疑的だ。」と前述のblogに書いたがそれはコミュニカティブ・アプローチを正しく理解していないためだったようだ。というか、<strong>正しく理解していないコミュニカティブ・アプローチ</strong>が多いということだ。これは白井氏も指摘していて、初級のうちから限られた文法・単語でアウトプットを要求する所詮「コミュニカティブ・アプローチ」には問題であるという。いま中学や高校、あるいは教養課程の英語教育はアウトプットが多すぎるか、パターンプラクティスおよびパターン暗記の試験ばかりだ。これではなかなか第２言語の能力は身につかない。これは<strong>インプット・インタラクションモデル</strong>と呼ばれているものを基本としているが、インプットの量が少ないので効果が疑問視されている。</p>
				<p>ではどうすればいいのか。白井氏はそれを次のようにまとめている。</p>
				<p><strong>１）インプット</strong><br />
				２０％くらいしか分からない教材をきくより、８０％以上わかる教材を「何度」も繰り返して聞く。<br />
				リスニング教材はスクリプトのあるものを使う。スクリプトを読んで意味を理解して、また聞く。</p>
				<p><strong>２）例文暗記</strong><br />
				パターンプラクティスの効用が疑問視されて、それとともに例文暗記をすることが無くなってきたが、ある程度の暗記は必要である。<br />
				文をつくれるくらいの基本的な文法も必要。</p>
				<p><strong>３）発音</strong><br />
				音声的になるべく正しい発音をするように心がける。</p>
				<p><strong>４）アウトプット</strong><br />
				すこしでも心がける</p>
				<p><strong>５）単語・熟語</strong><br />
				文脈の中で覚える</p>
				<p>さて、以上を参考にこれからも大人のための英語講座を続けていきたい。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>修士論文の構成　Rationaleを再び明確にする：ドラフトの再編について</title>
		<link>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20091231/877/</link>
		<comments>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20091231/877/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 31 Dec 2009 09:12:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/?p=877</guid>
		<description><![CDATA[				12月31日
				1章から5章、あるいは6章までのドラフトを29日までに作ってもらった。そこまで出来たら、今度は全面的な書き直し作業に入る。その方法を説明しておきたい。
				学会論文の審査をしたことがある [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p><strong>12月31日</strong></p>
				<p>1章から5章、あるいは6章までのドラフトを29日までに作ってもらった。そこまで出来たら、今度は全面的な書き直し作業に入る。その方法を説明しておきたい。<br />
				学会論文の審査をしたことがある研究者であれば、良い論文かどうかの判断基準が論理的で簡潔な記述だけではないことに気がついていると思う。まず論文は<br />
				<strong>１）魅力的なテーマを扱っているかどうか（compelling)<br />
				２）明晰に事例が提示されているかどうか(intellibility)<br />
				３）論理的に議論が展開されているか(discourse)<br />
				４）物語があるか(sotry-telling or narrative)<br />
				５）自分の主張が明確にかたられているか(Voice)</strong></p>
				<p>の視点から判断される。</p>
				<p>１９５０年代から論文が何を言っているか分からないという危機感から<strong>アリストテレスの修辞学</strong>が見直され、国際的に文体が統一されてくる。<strong>クリティカルライティング</strong>と言われる手法だ。一方<strong>クリティカルリーディング</strong>という方法も進んでくる。文章の論理的な展開を掴み、それを例証する事例を確認して、著者の言うとおりに理解をしていくという読みかただ。上記の枠にあてはめて文章を読んでいく。この読み方をすると、少しぐらい表現が複雑だったり曖昧だったりしても、きちんと内容を把握できるようになる。</p>
				<p>さて、<strong>自分のドラフトをクリティカルリーディングして、分かりやすくて論理的な文章としてパラフレーズ</strong>してみよう。方法は<br />
				<strong>ステップ１</strong>：ドラフトを書く。<br />
				<strong>ステップ２</strong>：第一章、第３章、第４章、第５章と順番に自分の言いたいことをドラフトを見ないで喋ってみる。友達に向けて話すといい。それを録音しておく。<strong>なにがなんで、どうだ</strong>という感じで話をする。すると、初心者の場合はドラフトと違った文章の構造を発見できるだろう。実は文字をかいていると、文字だけで思考を行い、全体の話の流れが分からなくなってしまう。なにがなにでどうなったか、<strong>その理由</strong>は、<strong>その根拠</strong>は、あるいは<strong>そもそも</strong>どうしてこの研究をしようと思ったのか、が大切になる。</p>
				<p>さて、ここで再び、<strong>rationale</strong>が大切になる。なぜこのような研究をおこなったのか、それを明確に詳しく語るのだ。しかし、<strong>ドラフトを見てはいけない</strong>。なぜ私はこの研究をおこなったのか、なぜならば＃＃＃＃であると答える。そして、思い出しながら何故この研究をおこなったのかを友達や仲間に説明している気持ちで話す。ここで、論文のサマーリーを言ってはいけない。自分が自信をもって（<strong>Voice</strong>がある）、物語として（<strong>Story-telling</strong>)、論理的に（<strong>discource</strong>）,事例を分かりやすく説明しながら（<strong>intelligibility</strong>）魅力的に（<strong>compelling</strong>）語る。きちんと調査分析を行った後なので、比較的自身をもって語れるはずだ。</p>
				<p>ステップ３：　それを<strong>記録しておき、文字に起こす</strong>。</p>
				<p>そのテキストをもとに、<strong>論文の全体の骨格</strong>を作る。その骨格にしたがって、<strong>ドラフトの文章をカット・アンド・ペーストで再編</strong>する。ここで獲得した骨格はドラフトの枠とは大分違うはずである。<strong>生き生きとした全体性</strong>を感じることが出来るはずだ。</p>
				<p>この方法で<strong>修士論文の質は圧倒的に改善</strong>される。ドラフトをワープロを使って修正していてはいつまでたっても文章が仕上がらないだけではなく、何を言っているのか分からなくなる。一度<strong>ワープロを離れ</strong>、ドラフトを<strong>机の上に伏せて置き</strong>、<strong>読者に向けて自分の研究を語ろう</strong>。なぜこの研究をしたのか、個人的な動機、社会的な価値、フィールドワークの経験、分析、分析からコンセプトにどのように展開したか、そのコンセプトは何か、どうやってコンセプトとプロトタイプにしたのか、そしてそのプロトタイプをどうやって人々に使ってもらったのか。最後に、この研究をやり終えた自分が未来に向けて持つ豊富のようなものが話せればいい。このように<strong>明示化されたRationale</strong>にしたがって論文の<strong>構成の詳細</strong>をきめる。ここまで来れば論文は完成直前である。頑張ってもらいたい。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>大人の英語講座　KMD流　Lesson 6</title>
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		<pubDate>Mon, 28 Dec 2009 16:15:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

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		<description><![CDATA[				暫く間が空いたが、その間に、『マーフィーの法則で英語耳』の最初のMurphology男性編を無事100回読み終えた受講者誕生。ひとまずは山を越えた。『英語耳ボイトレ』も全部の課が30回に近づいている。大分英語学習 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p>暫く間が空いたが、その間に、<strong>『マーフィーの法則で英語耳』</strong>の最初の<strong>Murphology</strong>男性編を無事100回読み終えた受講者誕生。ひとまずは山を越えた。<strong>『英語耳ボイトレ』</strong>も全部の課が30回に近づいている。大分英語学習の体力がついてきた。<br />
				<strong>「音読」</strong>の方法はその効用をなかなか信じることが出来ない。<strong>効果が出るまでに時間がかかる</strong>のだ。だが、<strong>『マーフィーの法則』</strong>の最初のセクション音読、100回の壁をこえれば、いよいよ本格的な勉強の開始である。</p>
				<p><strong>文法は例文暗記</strong><br />
				まず「文法」。これはいわゆる<strong>初等文法をマスター</strong>する。文法問題に出てくるようなむつかしいことはとりあえずはいい。初等文法は大体中学校の英語レベル。で、<strong>音読できるようになった文章の文法的な構造を理解する</strong>。『マーフィーの法則』は文法の説明があるので、それを参考に、音読を進める。ただ読む段階を卒業しよう。あと、音読の方法を少し変えたい。</p>
				<p>松澤さんも國弘さんもすこしスパルタなので、なかなか続かない。最近<strong>森沢洋介</strong>さんの<strong>『英語上達完全マップ</strong>』を読んでいたら、國弘方式を簡便にしたものが紹介されていた。國弘方式は100回×5回で500回だからねえ。100回がつらいので回数をへらしていったら、<strong>20回だと効果がでなかった</strong>という。そこで<strong>30回</strong>を提案している。これから各セクション30回で先に進めていこう。それを3回、4回と繰り返せば結局は100回を超すし。</p>
				<p>まず、<strong>マーフィー学女声パート</strong>から<br />
				<strong>リピーティング</strong> 5回：テキストを見ながらCDを聞いて発音する。これをリピーティングと言う。フレーズごとにストップボタンをおして繰り返す。<br />
				<strong>音読</strong> 15回：これはCD音源を使わないで行う。段々読んでいて意味が感じ取れるように。状況をイメージして。</p>
				<p><strong>リピーティング</strong> 5回：テキストを見ないで。ただし不正確ならテキストをみてかまわない。<br />
				<strong>シャドーイング</strong>：5回：シャドーイングとは流れている朗読の英文に一瞬遅れてついて行く。</p>
				<p>この30回が上達を確保する最小限だと森沢氏は言う。次の課題、Murphology女性パートは2分ちょっとだから、30回で一時間。一日10回くらいの感じでやれば3日で30回。こんな感じで進めていって欲しい。</p>
				<p>教材に関しては森沢氏も中学校の教科書をすすめるねえ。まあ、これはちょっと考えよう。<strong>大人の英語講座　初級編と上級編</strong>が必要な気もするので。</p>
				<p>さて、森沢さんは音読と並行して<strong>短文暗唱</strong>を進めている。これは僕の方でも少し考えていたので、なにか教材を用意したい。和文英訳であるところがポイントだ。上級編では<strong>佐々木高政『和文英訳の修行』</strong>をつかうことをすすめるが、この段階ではもう少し簡単なものがいい。いまははやらない<strong>パターンプラクティス</strong>だが、と森沢氏は断っているが、<strong>『ポンポン話すための瞬間英作文　パターン・プラクティス』</strong>をちょっとやってみた。結構いい感じだ。口慣らしにいい。CDを聞きながらそのばで英作文が出来るまで繰り返してみよう。全部で2時間30分だから、30分やれば一週間、15分で2週間。８から９の項目をやればいい。</p>
				<p>これが終わったらおすすめは<strong>大西泰斗</strong>（ひろと）氏の<strong>『これで話せる英語のバイエル』</strong>だ。<strong>単語カードとCD</strong>が付いている。一時間くらいだ。少しずつ短文暗唱を始めてもらいたい。</p>
				<p>さて、この段階で一つ身に付けておいてもらいたいことがある。それは<strong>発音記号</strong>だ。これは面倒だと思う人が多い。だが英語は完全な表音文字ではないので発音と綴りが違う。ちょっと回り道でも発音記号を覚えて、その記号と実際の発音を一致させる。それには<strong>『英語耳』</strong>が非常にいい。歌を歌うことに抵抗感がなければ<strong>『英語耳ドリル改訂版　発音＆リスニングは歌でマスター』</strong>がいい。松澤さんの音からの英語は批判する人も多いが、実際にやってみると効果はかなりある。<strong>プロソディに繋がる発音指導</strong>はやはりこの本である。繰り返しの回数は初心者には厳しいが。それは國弘さんの音読指導でもやはりかなり厳しい。なので実際のレッスンは『マーフィーの法則』を使って30回で次に行く方式でいきましょう。</p>
				<p><strong>発音記号と実際の発音を一致させるレッスン</strong>は<strong>ＵＤＡ式</strong>や<strong>ハミングバード式</strong>などいろいろあった。僕はそうした教材で何回か挑戦したがうまくいかなかった。<strong>個別の音の訓練で、興味が続かない</strong>。ところが、Ｊａｚｚの歌を習うようになって、<strong>発音記号と実際の発音の一致の徹底した訓練</strong>を受けた。それで出来るようになった。耳をきたえてもだめで、口の筋肉を作って、実際に発音をする。そして音と音のつなぎ方も発音記号の連鎖で覚える。これにつきる。ここに注目して徹底して教えてくれるのが<strong>『英語耳』</strong>だ。音声学の専門家からいくつか間違いを指摘されているようだが、まあ実践的な面では問題にならない。<strong>発音記号からプロソディにつなげていく</strong>ところは非常に面白い。<strong>『英語耳ボイトレ』</strong>を勉強しているので筋肉トレーニングはそちらでいいので、『英語耳』を参考として使いながら、発音記号と口の形を覚えていこう。個別の発音から発音をつなげていく方法、かたまりとしてプロソディで読む方法、<strong>すべて発音記号で行う</strong>のである。音読がスムースに出来ないところは発音記号を書いてみよう。そのとおりに繋がっていくことが分かっておどろくと思う。</p>
				<p>次は<strong>英語のリズムを身体に覚え込ませる</strong>。<strong>『英語耳ボイトレ』</strong>でリズムに合わせて歌を歌うところがあり、結構難しい。そのうち口が回るようになる。だが、そのままだと早口を聞いているみたいな発音になっている。そこでこれを解決するには<strong>自分でもリズムを出す</strong>。机をたたいてもいいし、身体を揺すってもいい。これを繰り返していると、音が聞こえると身体が反応する。すると、意味が身体の中に深くしみこむ感じが出る。発音記号をみながらこれができると、とてもいい。個別の発音が連結してリズムに合わせて意味が生まれてくる瞬間を感じることが出来れば非常にいい。</p>
				<p><strong>腹式呼吸</strong>を意識する<br />
				これは『英語ボイトレ』で練習しているが、発声を腹式呼吸に変えていこう。<strong>英語の発音は音の高低と強弱が日本語に比べて大きい</strong>ので、腹式呼吸をしないとうまく発声できない。ここは訓練しかないな。口の筋肉と腹式呼吸を一致させる。</p>
				<p>ちなみにここは英語の歌を覚えればすべて解決する。『英語耳』の肝はここだ。<br />
				１）好きな曲を選ぶ<br />
				２）何度も聞く。曲のサウンドイメージを頭にたたき込む。<br />
				３）歌詞を入手する。<br />
				４）歌詞を見ながら何度も聞く<br />
				５）歌詞をみながら、曲に合わせて歌詞を朗読する<br />
				６）歌詞をみながら、カラオケに合わせて歌詞を朗読する<br />
				６）歌詞をみながら、カラオケに合わせて歌う。<br />
				７）何度もカラオケで歌う<br />
				８）歌詞を見ないでカラオケで歌う。</p>
				<p>冬休みに<strong>一曲英語の歌を仕上げる</strong>のもいい。</p>
				<p><strong>ネイティブ幻想を捨てる</strong><br />
				音読や発音を進めると、<strong>ネイティブみたいには発音できない</strong>ですよ、という反応がある。大人が第二言語を学習するときには特別な才能がある人以外はネイティブのようには発音できない。人間の脳には<strong>臨界期</strong>というものがあり、それを過ぎると学習が出来ないとされている。聴覚の臨界期は非常に早く、ネイティブのように発音するためには子供の時からその言語に触れていなくてはいけない。だが、<strong>それにどれほどの意味があるのだろうか</strong>。ネイティブスピーカーのように話す必要はない。だが、それは<strong>音読や発音の練習をしなくて言いということではない</strong>。ここのあたりにイデオロギー的とでもいっていい壁がある。國弘先生のすばらしいところは、<strong>この壁を無視して英語の音読を提唱した</strong>ところである。<strong>発音練習はネイティブスピーカーみたいな発音で英語を喋るため</strong>、とおもって嫌悪したり逆に励んだりしている人が多いのが実情だ。</p>
				<p>だが、発音練習をすると聞き取れるようになる。さらには通じる英語を喋ることが出来るようになる。ここが音読のポイントだ。音から文法、単語を構築して、多読に向かう。</p>
				<p>では、<strong>ステップ2</strong>に進んでいこう。</p>
				<p><strong>『英語耳ボイトレ』：10分〜15分</strong></p>
				<p><strong>『マーフィーの法則』20分</strong></p>
				<p><strong>『ポンポン話すための瞬間英作文　パターン・プラクティス』　15分</strong></p>
				<p>くらいを目安にまた毎日レッスンをしてもらいたい。</p>
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		<title>修士論文の構成　第4章・第5章および第6章をどのように書くか</title>
		<link>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20091215/854/</link>
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		<pubDate>Tue, 15 Dec 2009 14:45:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

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		<description><![CDATA[				さて、第4章の書き方である。第4章はコンセプトの詳細を説明する章だ。数理モデル、サーバーの設計、デバイスの設計などを詳細に説明する。概念枠組みをつくった学生もそれを詳細に説明する。
				アブダクションで論文を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p>さて、第4章の書き方である。第4章はコンセプトの詳細を説明する章だ。数理モデル、サーバーの設計、デバイスの設計などを詳細に説明する。概念枠組みをつくった学生もそれを詳細に説明する。</p>
				<p>アブダクションで論文を書くという方法は、いままで身についている思考法がじゃまをしてなかなか難しい。こつは<strong>第3章の最後で何らかのモデルを提示すること</strong>だ。民族誌の分析をして何かをデザインする。そしてまたフィールドワークをする。ある程度おこなっていると、なんらかの形が見えてくる。問題はその<strong>形なり枠組みを第3章の終わりで提示</strong>しておくことである。そうすることで、<strong>第4章が正確に書ける</strong>。インプットはなにか、それを処理する機能はなにか、そしてアウトプットは何か、である。この作業が<strong>コンテキストから関数なりモデルを切り離す</strong>、という作業である。まさに言葉の意味通り、<strong>アブダクション＝誘拐、</strong>の作業だ。<strong>モデルをコンテキストから「誘拐」する</strong>のだ。</p>
				<p><strong>第4章</strong>はコンテキストから切り離された概念なり関数の詳細である。<strong>端末</strong>をつくったのであれば、具体的にどのように開発してインターフェイスはどのようになっていて、サーバーとの連携はどうなっていて、といったところを書く。<strong>概念枠組み</strong>であれば、その枠組みの中がどのような構造になっているのかの詳細を書く。どのような<strong>目的</strong>が達成されるべきなのか、<strong>目的間の関係</strong>はどのようになっているのか、の詳細も書く。自分がソフトウェアやハードウェアを開発していない場合は、そこを開発している人の作業をきちんと紹介する。そして、<strong>概念枠組みがいかに設計に貢献しているか</strong>をしめす。そんなに長く説明する必要はない。ようするに、<strong>概念や端末やソフトウェアがどんな構造になっているのか</strong>が記述されていればいい。インターフェイスを開発している人間は、ここでアウトプットと人間がであうわけで、実は<strong>科学とも解釈とも付かない幻想の世界</strong>に入っていくことになる。ここはここで非常に価値があるので、存分に<strong>デザインの腕</strong>をふるってもらいたい。だが、脱コンテキスト化された装置なり概念を示すだけでは、それが社会的な意味を生み出した証明にはならない。ここでいきなり意味を論じては、<strong>勇み足</strong>になる。このあたりは非常に難しいところだが、インタラクションデザインが10年以上停滞したのは、この問題を<strong>いい加減に処理した</strong>からであるとは、<strong>Paul　Dourish</strong>が<strong>Where the Action Is </strong>で10年ほど前に指摘したことで、いまもあまり変わっていないので、20年くらい停滞しているといっていい。つまりは<strong>Usability　Study</strong>と<strong>認知科学</strong>の呪縛から逃れていないのだ。<strong>完成したモデルの有効性を説明する命題を作り、それを直接証明しよう</strong>とする。ここが一番の間違いだ。演繹的には証明できないのだ。そこには<strong>解釈と意味の発生という現象学的な大問題</strong>がある。ここをすっとばして議論は展開できない。</p>
				<p>とはいえ、難しいところはこのくらいにして、<strong>第４章を書くこつは即物的に記述すること</strong>。つまりは<strong>設計図</strong>である。<strong>デザイン</strong>も淡々とデザインする。<strong>概念枠組み</strong>をしっかりと作って、何が何とどう関係すれば何が達成されるかを確立し、それを図示する。複数のメンバーでプロジェクトを行っている場合は、概念枠組みを作る人とソフトウェアやハードウェアを作る人が別れているかもしれない。それぞれに<strong>詳細な図面</strong>をかこう。</p>
				<p><strong>第5章</strong>は<strong>演繹的証明</strong>か<strong>帰納的証明</strong>である。ソフトウェアやハードウェアを開発した人間は作ったものを実際の<strong>現場で使ってみて動いたかどうかを検証</strong>する。これは<strong>実験</strong>ではなくて<strong>テスト</strong>である。ここで難しいことは、現場で動いたことが意味を生み出した、としないことである。<strong>インプットがあって、何らかの処理がされて、アウトプット</strong>があった。それだけである。<strong>アウトプットの具体的な記述が弱い</strong>。それではいけない。サールの説明によれば<strong>アウトプットの命題に＜志向性＞が加わって意味が生まれる</strong>。演繹法の場合、フィールドテストでインタラクションの結果、きちんとした命題がアウトプットとして提示されているか、が問題である。なのでハードウェアやソフトウェアをつくった学生はここで<strong>演繹的証明</strong>をする。つまりは<strong>動作確認</strong>だ。<strong>概念枠組み</strong>をつくった学生はここで<strong>帰納的証明</strong>をする。一人で両方をおこなった学生は章を分けよう。第5章で動作確認をフィールドテストとして行い（つまりは演繹法）、第6章で<strong>帰納法</strong>でデバイスやソフトウェアにコンテキストを与える。</p>
				<p><strong>第5章</strong>で自分で作ったものをフィールドテストするときには、動作確認に徹すること。これが、演繹的証明となる。ユーザがこれはいいねとかつかいやすいねとか、こうしたものが欲しかった、という反応を解釈するのは概念枠組みを検証する作業であって、動作確認テストではない。こう説明すると、<strong>自分の作ったものの妥当性</strong>を検証できないのではおもしろくない、という声が開発を行った学生から上がる。<strong>そのために第6章がある</strong>のだ。フィールドテストで動作が確認できると、これが何の役に立つのか、どうすればいいのかのイメージが次々とうかんでくるだろう。それを語ればいい。これは<strong>意見</strong>であって、<strong>証明すべき命題</strong>、つまりは仮説ではない。ここで新たな命題を立ててしまうと、有効性を20人くらいのアンケートで証明するという、<strong>C級修士論文</strong>になる。それは避けること。だいたいこの手の命題は証明できない。<strong>証明すべきは概念枠組み</strong>であり、それを証明するのは<strong>帰納法</strong>の役割である。この形の修士論文にしてプロトタイプの魅力を半減させてしまうことが多い。仕組みを開発した人はその動作確認を現場でテストする。それが第5章になる。</p>
				<p><strong>概念枠組みの証明は帰納法</strong>になる。動作確認は回路の論理性の証明になるが、<strong>概念枠組みには回路がない</strong>ので、帰納法で証明する。帰納法を使った証明は<strong>量的な方法</strong>と<strong>質的な方法</strong>があることは繰り返し説明してきた。これは開発するシステムの質による。だが、なんらかのプロダクトやサービスを<strong>イノベーション</strong>しようと開発している場合は量的な調査はあまり役に立たない。従来のサービスの効果などを検証する場合はいいかもしれないが、それはわざわざイノベーションとして研究する対象ではないだろう。新商品は利用者の<strong>母集団を定義できない</strong>からだ。なので僕の指導で修士論文を書いている学生は<strong>質的検証を採用</strong>することを薦める。<strong>プロトタイプがコンテキストを得る様を物語として描けばいい</strong>のだ。その方法についてはすでに説明した。プロトタイプをフィールドにもっていって使ってもらう。動いているということと人間が感じる意<strong>味を直結させてはいけない</strong>と述べた。そうではなくて、どのようなコンテキストで使われていて、人々がどのように自分たちのゴールを達成するかを観察し、それを<strong>ストーリーとして示せばいい</strong>。</p>
				<p>これで2章以外のところの指導は終わりである。クリスマス過ぎくらいまでに一気に書いてもらいたい。全体を書ききることが大事だ。全体のドラフトが出来たら<strong>第2章</strong>に取りかかろう。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>大人の英語講座　KMD流　Lesson5</title>
		<link>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20091213/851/</link>
		<comments>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20091213/851/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 13 Dec 2009 14:46:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/?p=851</guid>
		<description><![CDATA[				12月12日
				大人の英語レッスン、そろそろ1ヶ月たった。準備期間が終わろうとしている。いままで何回発音したか実際に数えてみよう。あと、まだTOEFLやTOEICを受けていない人は至急受けること。
				 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p><strong>12月12日</strong></p>
				<p>大人の英語レッスン、そろそろ1ヶ月たった。準備期間が終わろうとしている。いままで何回発音したか実際に数えてみよう。あと、まだ<strong>TOEFL</strong>や<strong>TOEIC</strong>を受けていない人は至急受けること。</p>
				<p><strong>『英語耳ボイトレ』</strong><br />
				大分慣れてきたと思う。もう1ヶ月くらいになる。これは全部で40分弱なので、一日でやってもいいし、2日にわけておこなってもいい。筋肉をきたえて腹式呼吸を覚えていこう。<strong>Lesson1からLesson7まで続けて全部</strong>を練習してみよう。<br />
				<strong><br />
				『マーフィーの法則』</strong></p>
				<p>ここも大分慣れてきただろう。一日30分と松澤さんは言っているが、このまま続けて、一冊を何度も読み切ってしまおう。</p>
				<p>そろそろ本の記号に会わせて読んでみよう。読み方の一部はまえに説明したが、松澤さんは記号を工夫してつけている。単語の最後の子音が次の単語の母音と結びつくとき。　<strong>Nothin gis aseasy</strong> というかんじだ。次は単語の終わりの子音と次の同じ子音がつながるとき。このときは<strong>tha tthere </strong>の様な感じになって、まえの子音は発音されないが、音の長さは残る。次も子音がつながり、<strong>Mus tbe</strong>という感じになりｔは発音されない。これらの規則で単語が繋がっていく。もう一つ大事なのは<strong>息継ぎ</strong>。その記号も入っている。これに従って、発音を磨き上げていこう。最初のマーフィー学のところをCDにあわせて<strong>10回くりかえすと30分弱</strong>だ。これを今週は目指してみよう。</p>
				<p><strong>『國弘流英語の話し方』</strong></p>
				<p>さて、この英語講座は<strong>本格的な英語の文章</strong>を読めるようになる、聴けるようになることを目的としている。日常コミュニケーションのための英語ではないのだ。バイリンガルでない普通の日本人で、とくに語学の才能に恵まれていない、しかも大人がどうやって<strong>本格的な英語力</strong>を身に付けるかに挑戦している。何回も國弘氏のことについては言及しているが、今回<strong>『國弘流英語の話し方』</strong>を詳しく紹介したい。これは<strong>1970年に出版されて大ベストセラー</strong>になった本と同じタイトルだが<strong>中身は今風</strong>になっている。僕は当時<strong>高校生</strong>だったが、この本の最初の版を読んで感動したことを覚えている。だがその一方で<strong>実践はなかなか難しく</strong>、結局泥縄で勉強したまま<strong>アメリカの大学に1年留学</strong>した。僕はその後<strong>フルブライト奨学金</strong>をうけてアメリカに留学しようと考えて、英語を学ぼうと思った。当時本格的な訓練をしてくれると評判の<strong>日米英会話学院</strong>に行くことにした。能力別のクラス分けの試験があり、なんと<strong>中級クラス</strong>になった。それほど英語が出来ないと言っても、周りを見渡せば一番出来るくらいだったので、「なに？」と思った。だが、そこで<strong>簡単な英語</strong>を徹底的に勉強することになった。3ヶ月後の試験では圧倒的な出来で、<strong>最上級クラスの一番上のクラスに編入</strong>した。（ちょっと小さな自慢話！！！）そのすぐあと<strong>TOEFL</strong>の試験を受けて、<strong>600点</strong>を超えた。まだ最上級クラスでのレッスンが本格化する前のことである。6時30分から9時30分まで3時間週三回に加えて宿題があるので、まあ週20時間くらい勉強した。<strong>3ヶ月で250時間弱</strong>くらいだろうか。</p>
				<p>ちなみに、TOEFL対策はしなかった、というか30年以上のことなので、そのような学校もまだなかった。現在では対策をすると割と簡単に点が上がるようだが、本当の力がそうした勉強法でどのくらい付くかは疑問である。もちろんこの程度（TOEFL600点）の英語力ではアメリカの大学院では通用しないので、大学院留学後1年はかなり苦しむ。いまでもまあ英語力はたいしたことはないなあと感じることが多い。しかし、TOEFLで600点というのはある目安である。中学程度の英語を大学卒業したそれも1年アメリカ留学の経験がある大人がやり直す。そこで圧倒的な能力の向上があった。ここを目指そう。ただし、TOEFLの点を取ることが目的ではないので練習をする必要はない。</p>
				<p>だがこの話、つまり<strong>簡単なことを繰り返す</strong>、を信じて続ける人は少ない。英語が得意な人は問題ない。語学にむいた才能は確かにある。ではその<strong>才能がない人</strong>はどうするのか。<strong>努力するしかない</strong>。<strong>國弘メソッド</strong>の素晴らしいところはこのあたりのことを上手に説明しているところである。行方さんの方法を紹介してきたが、今回は國弘さんの方法を詳しく見ていこう。</p>
				<p><strong>音読の功徳</strong><br />
				<strong>功徳　１</strong><br />
				まず音読で頭から理解するという思考パターンが出来る。これは非常に面白い現象だが、たしかに音で聞くとわかるようになる。<strong>主語動詞の繋がりが生きた感じ</strong>になる。意味の分かった文章を何度も音読する。</p>
				<p><strong>功徳　２　有意義な多読が可能になる</strong><br />
				多読の効果は間違いないが、世の中の多読の本は<strong>ひたすら読むこと</strong>を薦めている。だが<strong>音読をへてから多読</strong>に行く必要がある。ここをとばして多読に行くと、結局行方さんの言っている<strong>ピントのぼけた理解</strong>しかできなくなる。</p>
				<p><strong>功徳　３　自分が必要とする会話表現をいろいろな媒体から取り込める</strong><br />
				これはちまたに多くある<strong>会話サンプル本への批判</strong>である。たしかに会話サンプル本も見る人が見れば面白い。だがそれはサンプルの英文がすぐ分かって、その場で発音できる人に限られます。なので会話サンプル集から英語を始めるのは好ましく<strong>ない、と国弘さんは言うわけです。</strong></p>
				<p><strong>功徳　４　英作文の力が会話力になる</strong><br />
				頭の中の英語が口にでる。<br />
				<strong><br />
				功徳　５　難しい英語に取り組める</strong><br />
				簡単な英語は口が覚えていると余裕をもって難しい英語に取り組める、というわけです。</p>
				<p>国弘氏の主張は簡単な文法と例文を音読で身体にしみつけろ、ということである。</p>
				<p><strong>発音・発声について</strong></p>
				<p>発音に関して何の苦労もない人がいる。だがそうでない人は舌や唇の使い方を学び、練習するしかない。</p>
				<p>もう一つは<strong>発生の問題</strong>。英語の発生の基本は腹式呼吸でここがわからないと、イントネーションもリズムも生まれない。これは『ボイトレ』で練習しているところだ。あと、音の強さ。我々が考えているより大きな声で練習する必要がある。</p>
				<p><strong>音読の段階</strong><br />
				１：音読のテキストを決める</p>
				<p>２：模範の発音を聞いて、テキストの意味を理解する。</p>
				<p>３：単語レベルでの発音が出来るようにする。</p>
				<p>４：途中でつっかえずに曲がりなりにも最後まで発音できる。</p>
				<p>５：構文的な切れ目と音読との関係が理解できる<br />
				何処で文を切っているかに注目</p>
				<p>６：日本語訳に頼らずに意味が文の先頭から自然にとれる<br />
				音読でこの段階にまで持って行きます。<br />
				秘訣はこころのなかで話している状況をイメージすることだと國弘氏はいいます。</p>
				<p>７：イメージが生き生きと実感できる</p>
				<p>８：朗読していて自然さと楽しさが出る</p>
				<p>９：テキストの例文の応用可能性にどんどん気がつく</p>
				<p>１０：英語力が広がっていく可能性を実感できる。</p>
				<p>100回読んでいるうちに最後の状態にまでなるのです。<br />
				<strong><br />
				教材は何を選ぶか</strong><br />
				基礎作りの時は短い教材を何度も繰り返す。<strong>一時間ほどのもの</strong>を選ぶ。今回の<strong>『マーフィーの法則』</strong>は<strong>一時間ちょっと</strong>なので基礎作りに最適だと思う。</p>
				<p>まあ、どれも言うは簡単だが、実行するのは難しい。英語を職業としないものが英語の能力を身に付けていくのはなかなか大変である。</p>
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		<item>
		<title>修士論文の構成　第3章をどのように書くか</title>
		<link>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20091213/844/</link>
		<comments>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20091213/844/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 13 Dec 2009 07:51:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/?p=844</guid>
		<description><![CDATA[				そろそろ第3章をかいているころだろう。第１章はまた戻って書き直すので、大体出来たら先に進もう。第2章は最後に書けばいいので、ここで、第3章に着手しよう。今回は現在修士論文を指導している学生向けにちょっと具体的に、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p>そろそろ第3章をかいているころだろう。第１章はまた戻って書き直すので、大体出来たら先に進もう。第2章は最後に書けばいいので、ここで、第3章に着手しよう。今回は現在修士論文を指導している学生向けにちょっと具体的に、かつ修士論文発表前なので事実関係の詳細は省略して書くので読みにくいかもしれない。第3章を書くにあたって、<strong>概念枠組みと脱コンテキスト、再コンテキストの流れ</strong>をしっかりと理解しよう。</p>
				<p>第3章では<strong>コンセプト・仮説の提示・説明</strong>をおこなうが、そのまえに、まずいくつか整理が必要である。プロジェクトで活動をしてきたために、自分が何をしたか分かりにくくなっている。そもそもプロジェクトがどのようなものであるのかも曖昧になっている場合が多い。まず自分の参加した<strong>プロジェクトの全体像</strong>を図に書いてみよう。そのときに、大事なことはやはり<strong>関数概念</strong>である。どのような関数をつくっているのか。そのインプットはなにか、アウトプットは何かを明確にする。そして、さらに大切なことは<strong>人間とインプット・アウトプットのインターフェイスを明確に意識する</strong>ことである。ここはプロジェクトの実例で示したいが、まだみんな修士論文を書いている最中なので、いずれそれは紹介するとして、ポイントは、<strong>システムのインプットとアウトプットの先に人間がいる</strong>ということである。ここを明確にする。</p>
				<p>プロジェクトそれ自体は研究にはならない。なぜなら、様々な手法を組み合わせて目的を達成するのがプロジェクトだからだ。かつては様々な手法の背後に共通の手法があると考えられ、<strong>サイバネティックス</strong>やその変形の<strong>システム理論</strong>をつかってプロジェクトを記述する試みが行われたこともあるが、このような<strong>インターディシプリナリーな方法</strong>は正しいけれど当たり前のことを言うか、オカルトのような正しいのか正しくないのかわからないものになっていった。したがってプロジェクトの中から研究対象を切り出さなくてはいけない。すべてを統括する理論を探すのは神様を捜すような話だ。</p>
				<p>僕の指導している学生は基本的には<strong>アブダクション法</strong>で研究を行う。したがって現場にいき、経験を積み、民族誌を記述し、それを分析して、アイデアを生み出し、アイデアをまとめてコンセプトを作り、それを検証する。この一連の流れを経験しているところが特徴である。そして、このコンセプトを何らかの形で検証すればいい。</p>
				<p>基本の流れはアブダクションだ。アブダクションは<strong>C.パース</strong>が提唱した考え方で経験をもとに直感的にアイデアを思いつく方法だ。だが、それだけではなくて、それを論理的にモデル化して、帰納的に証明する。現在では多くの科学がこの方法を採用している。流れは</p>
				<p><strong>フィールドワークを行う<br />
				濃い記述の民族誌を作る<br />
				分析する<br />
				＜アブダクション＞<br />
				アイデアを一杯作る<br />
				仮のコンセプトあるいは仮説を思いつく。<br />
				それを説明する。</strong></p>
				<p>というのが第3章の記述の流れだ。そして、そのコンセプトの詳細を示すのが、第4章、その仮説を演繹的に解いて実際に動くプロトタイプをつくる、あるいはその有効性を帰納的に証明するのが第5章となる。両方をやるなら、5章6章に振り分ける。</p>
				<p>さて、プロジェクト全体の仕組みを明らかにした後で、自分の修士論文の<strong>主題を決める</strong>。これは勿論第1章でしめすことなのだが、主題をどう選ぶかが非常に難しい。たとえば、人間の歩行のスピードなどの活動をフーリエ式などで変換してある関数に入れると、それが時間軸で処理され、地図上に単なるプロットではなくて、動きの状態が反映された形でデータが作成されるというプログラムを作成した学生がいるとする。すると彼女の主題はその<strong>プログラム</strong>あるいはプログラムの素になった<strong>アルゴリズム</strong>である。フィールドワークからのアブダクションで、あるアルゴリズムを思いついたとする。するとフィールドワークの記述をまとめるとともに、アルゴリズムについてもしっかりとかく。つまり、「歩行者の移動の状態を時間軸でモニターしてXアルゴリズムで解析すると、都市を楽しく経験できるようになります」という文章を書いてはいけない。自分の主題はアルゴリズムXなのだから「歩行者の移動の状態を時間軸でモニターしてXアルゴリズムで解析すると、時間軸ごとに動きの質が反映したデータが生成されて、地図情報と合成されます」と書く。</p>
				<p>すると、だからどうした、という意見が来る。これは第5章で、このアルゴリズムで生成されたデータとべつのYアルゴリズムで生成されたデータを活用して、おもってもみなかった形で都市を楽しく経験できるようになります、と将来への展望として語る。こうなると、<strong>論証のポイントはアルゴリズムの魅力、アルゴリズムが実装されて動くこと</strong>になる。ここの作成に関わった学生は主題をここにしぼること。自分の研究を関数概念で意識して、「関数」をプロトタイプ、コンセプト、あるいは仮説として説明する。関数でもいいのだが、まあこれは補助線だ。どのようなインプットをいれると、どのようなアウトプットが出てくるか。それを説明して、その仕組みを説明する。これは<strong>商品開発でも同じ</strong>だ。こうしてああして、こんな形でこんな内容のあるものをつくるようにしました。となればいい。</p>
				<p>ここで難しいのは、数理モデルや、実際のプロトタイプを作った学生はそれを示せばいいが、インプットやアウトプットをなににするかの<strong>調査を行った学生</strong>はどうすればいいのか。これも何を主題とすればいいかを考えれば分かる。いけないのはプロトタイプやモデルを自分の研究の「関数」として言及してしまうことである。こうなると、<strong>アウトプットの信頼性の証明が主題</strong>となり、わけのわからない社会学的な仮説を作り、アンケート調査するという<strong>最悪のパターン</strong>になる。これをさけるためには、ちょっと工夫がいる。自分が関わった<strong>プロジェクトで作り上げた「関数」を詳しく説明</strong>する。これは<strong>自分の「主題」ではない</strong>。こうしたインプットが入り、こうした数理モデルで処理され、そのデータと別のデータがまた別の数理モデルで整理され、その結果が端末（別の関数）に送り込まれ、処理されて、かくかくしかじかの画面となって提示されます、と書く。関数を主題としている学生、端末を主題としている学生はこのなかで自分の主題を決めればいい。実際にものを作った場合はこの流れになる。</p>
				<p>だが、調査をして、プロトタイプのコンセプトをつくった学生は論じる主題がない。実はもう一つ先に進めなくてはいけない。それは<strong>概念枠組み</strong>である。この分野は人によって<strong>マインドモデル</strong>などと呼んだりするが、考え方は同じだ。観察をして分析をして、こんなものを作ろう、ときめて設計図を作る。そのときにその<strong>設計図の背後に概念枠組み</strong>がある。<strong>これを研究主題</strong>とする。具体的には利用者が当該のサービスをつかって達成したい<strong>複数の目的と、その目的間の関係</strong>である。なぜこのようなサービスをうけたいのか、それによって達成するものは何か、を考える。</p>
				<p>ここで、注意しなくてはいけないのは<strong>「志向性」</strong>の問題である。僕の<strong>『デザイン思考』</strong>では志向性の問題を実際の概念構築から切り分けるために哲学とビジョンと呼んでいる。志向性でいうと信念と欲望である。この二つを概念枠組みから外す。つまり<strong>コンテキストからコンセプトを切り離す</strong>のだ。これはアルゴリズムを主題と選んだ人も、端末を選んだ人も同じだ。切り離したコンセプトを詳細に記述するのが第4章の課題となる。</p>
				<p>と、ここまで読んできて、わかったようなわからないような気になったとおもう。すこし復習しておこう。「修士論文の構成」で、第3章について次のように説明した。「フィールドに行って経験を拡大して、そこからの直観でプロトタイプなどを思いつくわけであるが、どのようなデータをとって、どのような情報としてわたすと人は喜ぶかあるいは感謝するかは情報システムの中にある話ではない。人間側にある。この場合、生理学的に議論すれば科学になる。ここは実験法などを明示して科学的に証明しなくてはならない。そうではなくて解釈学的に議論することも出来る。この場合は質的調査の方法論を採用しなくてはいけない。また僕は好まないが、大量のデータを集めて統計的な処理をする方法もある。このよな量的調査を採用するならその方法を明示する必要がある。この証明をこの章でする必要はないが明言する必要がある。」つまり、ここから質的調査の方法を使う必要があるのだ。</p>
				<p>質的調査法では、<strong>入力＞＞機能＞＞出力＞＞志向性＞＞意味</strong>の流れに敏感でなくてはいけない。ここをうっかり出力＞＞意味と直結してしまうから分からなくなる。つまり、<strong>この機器やサービスを使って（出力）楽しかったです。（意味）</strong></p>
				<p>この志向性を意識して、出力と意味を直結しないようにする限りプロトタイプやアルゴリズム、あるいはインターフェイスデザインに関係していなくても、質的調査によって<strong>概念枠組みは検証</strong>できる。勿論、プロトタイプやアルゴリズム、インターフェイスデザインもこの方法で証明していく。だが概念枠組みも証明できるのだ。このことを少し説明しておこう。</p>
				<p>概念枠組みは仮説でありプロトタイプである。<strong>何度も作り替える</strong>。そして納得いく気がしたら検証する。そのときに検証方法として、<strong>量的調査</strong>を採用しがちだ。もちろん量的調査も必要である。がフィールドワークをもとに何かをデザインする場合、<strong>ほとんどの場合意味がない</strong>。なぜなら、<strong>量的調査が前提としている母集団が定義できていない</strong>からだ。なので、サンプルを選びようがない。もちろん大量にサンプルをあつめればいいが、それも非現実的だ。作ったもののの妥当性を質問用紙を配ってそれを分析しても意味がない。ここを肝に銘じておく必要がある。それをサービスを使って（出力）楽しかったです。（意味）という形で仮説をつくると、証明方法を巡って収拾が付かなくなる。</p>
				<p>では<strong>どのように概念枠組みの妥当性を証明するのか</strong>。じつはアルゴリズムもプロトタイプも概念枠組みも同じ方法で証明する。</p>
				<p><strong>第3章</strong><br />
				経験の拡大＞＞コンテキストを掴む<br />
				行動を記述する<br />
				分析する<br />
				概念枠組みを作る（脱コンテキスト化にむけて）</p>
				<p><strong>第4章　設計図</strong><br />
				脱コンテキスト化の詳細<br />
				目的を洗い出す。<br />
				目的を分類する<br />
				概念枠組みを構築する</p>
				<p><strong><br />
				第5章　証明</strong><br />
				装置、アルゴリズムに概念枠組みを埋め込む<br />
				装置を作成する＞＞<strong>演繹法</strong> で証明<br />
				装置の有効性を実証する＞＞<strong>帰納法</strong> で証明<br />
				概念枠組みを使ってつくったアルゴリズムや端末をつかって<strong>ユーザーが目的を達成するストーリーをつくる</strong>（文脈を再び与える）となる。装置が動いていなくてはいけないので、グループのコラボレーションの結果が大事になる。</p>
				<p>なので第3章は<strong>脱コンテキスト化を目指して概念枠組みを作る</strong>ようにする。これが僕の方法で言うところの<strong>ビジョン</strong>から<strong>コンセプトへのジャンプ</strong>である。メディカルグループ、えきれいグループとも、すでに概念枠組みは明確に出来ているはずだ。フィールドワークを説明し、分析し、概念枠組みを提示すれば第3章はできあがりである。</p>
				<p><strong>付記</strong><br />
				上記の話は<strong>佐藤郁哉</strong>さんの<strong>『質的データ分析法』と『実践質的データ分析法』</strong>で採用している方法でもある。この方法の歴史的な由来をまとめておこう。<strong>『実践質的データ分析法』第10章「データ密着型理論」としてのグラウンデッド・セオリー」</strong>を参考にした。</p>
				<p>フィールドワークをもとにした調査の有効性について理論にまとめた先駆者は<strong>バーニー・グレイザー</strong>と<strong>アンセルム・ストラウス</strong>である。彼らは1960年代半ばに<strong>『データ対話型理論の発見』</strong>を出版する。ここで彼らは<strong>１）調査データに即した理論構築、２）データー収集とデーター分析の同時進行、３）定性的コーディング、４）理論的サンプリング</strong>によるデータ収集の４つをあげている。量的調査によって仮説の証明を行う方法に意義を申し立てたのだ。たしかに、仮説を立てて調査をおこなって実証するという流れ、とくにアンケートをあつめて分析する方法はなんとなくしっくりとこない。だがフィールドワークによる調査は仮説を作ることが出来ても検証できないではないか、というのが一般的な流れだった。</p>
				<p>それに対してフィールドワークのデータを<strong>定性的コーディング、継続的比較、理論的メモ</strong>で分析すれば検証可能な形になる、としたのがこの考え方である。この方法の詳細はともかく、濃い記述の民族誌を分析していく。これが<strong>定性的コーディング</strong>である。また関係するところのフィールドワークを繰り返して分析も進める。これが<strong>継続的比較</strong>である。そしてデータと分析枠組みを照らし合わせてなぜこうなのかと考える。それが<strong>理論的メモ</strong>だ。メディカルのチームはこのあたりのしっかりとした記録をすでに持っている。活用しよう。またえきれいチームもさまざまなところでフィールドワークを繰り返し、分析してきた。</p>
				<p><strong>概念同士の関連を考えながらフィールドワークを繰り返す</strong>。この作業を<strong>理論的サンプリング</strong>と呼んでいる。しばらく繰り返していると、これでいいかな、という段階になる。これを<strong>理論的飽和</strong>という。この段階で<strong>説明図式</strong>があるはずだ。いま我々が研究している領域では、これが<strong>概念枠組み</strong>であり、これをもとにアルゴリズムやプロトタイプが作られていく。そして<strong>満足いくまで何度か作り直しをする</strong>。</p>
				<p>さてこの理論の大事な点は、説明図式が出来た段階で、<strong>コンテキストから切り離されている</strong>ことである。現場のコンテキストにこだわっていては、概念枠組みやプロトタイプは構築できない。だが、そうして構築したコンセプトの本当の有効性はそのままでは評価できない。もう一度コンテキストを与える必要がある。これを<strong>ストーリー化</strong>と呼ぶ。</p>
				<p>つまりはフィールドワークのなかで思いついたアイデアを概念枠組みにして、アルゴリズムやプロトタイプをつくり、それを<strong>もう一度コンテキストにおいて、説得力のある物語が書ければ、コンセプトは証明されたと考えて良い</strong>のだ。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>修士論文の構成　第１章をどのように書くか　</title>
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		<pubDate>Wed, 09 Dec 2009 22:13:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

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		<description><![CDATA[				１２月９日。
				修士論文ワークショップを行った。今回は第一章の検討を行った。
				大体言いたいことが固まってきた頃だろう。ここで大切なことは視点を決めることである。視点の定まっていない文章ではいけない。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p><strong>１２月９日。</strong></p>
				<p>修士論文ワークショップを行った。今回は第一章の検討を行った。</p>
				<p>大体言いたいことが固まってきた頃だろう。ここで大切なことは<strong>視点を決める</strong>ことである。視点の定まっていない文章ではいけない。まず視点を作ろう。そのためには以下のような枠組みを使う。</p>
				<p><strong>第１章の流れ：<br />
				私はこんなものを作りました。<br />
				これはこうやって作ります。<br />
				こうやって使います。<br />
				これは良いです。<br />
				こんな風に社会が変わります。</strong></p>
				<p>この文章に当てはめて書いていく。ここで大事なことはこの段階では<strong>文章を長くしない</strong>ことである。それから、<strong>二つあるいはそれ以上の文章をだらだら続けない</strong>。無理にでも切る。さらに主語に長い修飾がかかっている場合はその<strong>修飾の部分を主語を明確にして独立した文章</strong>にする。そうすると<strong>短い文章</strong>が沢山出来る。それを<strong>接続詞</strong>で繋いでいく。なにがなんで、どうした、それは、という感じである。こうすることで<strong>表現の背後に潜んでいた論理</strong>が浮かび上がってくる。こつは<strong>主語をからなず意識</strong>して、その主語の<strong>動詞を意識</strong>する。そこができてから主語を説明する文章を考える。ここを意識していないので文章がだらだらと長くなっていく。日本語はそのまま書くと<strong>論理関係</strong>が明確にならない。まただらだら文章を続けると、本人はいいが、読み手はなんのことをいっているのかわからなくなる。そこで、<strong>てにをは</strong>がしっかりした文章を作り、文章の間を<strong>接続</strong>して繋いでいく。すると論理が浮かび上がってくる。この作業を一度すると、なにがなにでどうだ、という<strong>論理的な流れ</strong>を作ることが出来る。</p>
				<p>短い文章でいいたいことを作る。主語をはっきりさせ、てにをはを明確にした文章を書き、その文章と次の文章を接続して繋ぐ。論理的な関係がめいかくになった文章が出来る。その文章はちょっとごつごつして変な感じがするかもしれない。だが一パラグラフをそうした文章で書いてみる。そして、自分でしっかりと自分のことを説明する文章のなかにこめる論理を意識する。ここまでが出来たら、つぎに<strong>読み手にこの論理を投げ込むように文章を展開</strong>する。この感覚は非常に大切だけど、難しい。でおすすめの方法は、友達を前に自分の話を説明する。論理を意識して。友人にはわからなければ質問して、と頼んでおくと良い。そして<strong>友人の心に自分の言いたいことがメッセージとして伝わる</strong>ようにする。この説明を<strong>録音</strong>しておく。そして、それを文章に起こしてみる。</p>
				<p>すると、なんとなく言いたいことが少し言えていない気がする。相手がいると<strong>無意識にだが言葉が省略</strong>されている。相手がうなずいたり目がかがやいたりすると、言葉にする作業を省略したりしている。なので補う。これを行っていくうちに何をどのように相手に伝えたいかが気になるようになるので、それにしたがって文章を変えていけばいい。こうして<strong>生きた文章でかつ論理的な流れを維持</strong>している文章を作ることが出来る。だから、それで、つまりね、といった感じで相手に語りかけている気がしてきたら完成である。</p>
				<p>ここまでが出来たら、次は<strong>もっともらしく</strong>書く。「僕はAをつくりました。なんでつくったかといいうとBだからです。でAをどうつかうかとうとこうします。友達に使ってもらったところ、素敵と言いました。なのでみんなにAを使ってもらいたいと思います。するとみんながBが大事だと思ってくれると思います」みたいなことが大まかな流れだ。それをもう少しかみ砕いて文章の数を増やして、文章同士を論理的に繋いでいく。だが、大学院修士の論文でこの形がむき出しになっている文章は、どうかとおもう。そこで、「現在の日本の医療制度において、もっとも問題になっているのは２１世紀の日本では疾病構造が２０世紀に比べて大きく変化しているにもかかわらず２０世紀半ばに制度化された医療システムをいまだに使い続けていることである。本論文では・・・・」と書いていく。もっともらしいでしょ。まあ１年以上勉強を続けて本を読んだりフィールドワークをしたり、プロトタイプをつくったりしてきているので、いくらでもかけるはずである。だがそのときに<strong>論理の大枠</strong>を忘れないようにしなくてはいけない。また<strong>自分の気持ちを込めること</strong>をわすれてはいけない。すると人の心に届く論理的な文章になる。このあたりを心がけて第１章を書いていく。すると<strong>心がこもっていてメリハリのある文章</strong>が書ける。</p>
				<p>あと、<strong>文章が書けない</strong>という問題をもっている学生が未だにいる。それは<strong>アウトライン</strong>を細かく作りすぎるからだ。アウトラインのそれぞれの項目を文章にすると全体が完成すると思っている。それで手が止まる。これを直す<strong>特効薬</strong>がある。まずアウトラインをもとに、あたまから文章にしていく。これも<strong>口で説明して録音する</strong>方法を薦める。一人で良い。<strong>資料は見てはいけない</strong>。しゃべれるだけしゃべる。内容については項目に<strong>Questioning</strong>をする。つまり５W1Hを問いかける。で、ポイントは第１章から第５章まで一気にしゃべる。で録音したものを文章に起こしてみる。で、それを声を出して読み返してみると良い。<strong>未完成だけれど、そこに全体像が見えてくる</strong>。あるいはまったくのばらばらだとすると、全体像が見えるように語り直してみる。非常に荒削りだがこの作業をすると、<strong>全体のイメージを把握</strong>できる。あるいは把握できていないことがわかって次に何をすればいいかが分かる。それから執筆すればいい。アウトラインでつくった構造は間違っていたことが分かるだろう。この段階では完成した修士論文のイメージをもっていないと筆は進まない。そのイメージをもとに、書く。書いて、読み直して書き直す。たっぷりと<strong>プロセスライティング</strong>を行ってもらいたい。アウトラインで部品を作って論文として統合しようとしてはいけない。絶対に<strong>生きた論文</strong>にはならない。</p>
				<p>ところで、<strong>証明の方法</strong>についていまだ混乱している学生がいる。独立変数をきめて、関数を定義して、従属変数を決める。それだけである。だが、まだ混乱している。修士論文では理論的方法論的に詳細を検討する必要はないが、証明の方法は<strong>帰納法</strong>か、<strong>演繹法</strong>か、<strong>アブダクション</strong>かの選択は必要だ。論理的に矛盾がなければ演繹法で証明できたとする。アルゴリズムを作りプログラムして動けば、それでいい。だがそのアルゴリズムをどうして思いついたか、まで研究に含めたければ、思いつくプロセスの説明が必要だ。ここはアブダクションをつかう。つまり経験を積み重ねて多くのアイデアをおもいつく、というところを説明する。そしてそのアルゴリズムに基づく仕組みがどのような効果をもつのかについて説明したければ帰納法的に説明をする。つまり社会の現象に合わせて説明する。その説明の方法は<strong>量的調査</strong>と<strong>質的調査</strong>がある。量的調査ならサンプル数の問題と有効性の統計的な検定の問題を避けて通れない。質的調査であればその手法を明示して記述による証明そのほかを検討しなくてはならない。ほとんどの学生はアブダクションを選択しているのだから、<strong>アブダクション＞＞演繹法（プロトタイプを作り動く）＞＞帰納法（プロトタイプが有効だったかをしめす）</strong>の流れになる。それを明確にする。</p>
				<p>第一章ではここが書けていなくてはいけない。これもQuestioningで明らかにする。たとえば、「本調査は＃＃年＃＃月、かくかくしかじかの所でおこなったフィールドワークからの観察をもとにしている。我々は街を歩いているときに興味のあることがあるとそこに立ち止まったりする。あるいは急いで移動したり、あるいはゆっくりと歩いていたりする。我々は自分の置かれている環境に合わせて複雑な判断を行いこうした行動をしているが、こうした行動はほとんどは無意識に行っている。えきれいプロジェクトではユーザーに端末をもたせ、このような移動情報をインプットとして提供すると、今いる街をどのように楽しめば良いかのガイドを提供してくれるシステムを構築した。このシステムは我々が普段意識しないで経験している街をより新鮮な視点から楽しむことが出来るサービスを提供することが出来る。下記がシステムの全体図である。＃＃＃＃このシステムにおいて、いくつか要となる所がある。まずアナログの移動データを変換して＃＃＃＃。本修士論文では筆者がおもに関わった＃＃のところを主題とする。」と続くわけだ。</p>
				<p>上記の文章はこのプロジェクトに関わった全員が自分の言葉で自分のやったことを考えて書けばいいが、つくったシステムの大枠とそれがなにをするものであるのかの説明は明確に行わなくてはいけない。これが<strong>rationale</strong>である。ここが曖昧だと何をどのように証明するのかにむけて議論が進まない。あと「<strong>実験</strong>」という言葉を広く使ってはいけない。コンピュータシステムを開発しながら、社会的文化的な研究をするときに、「実験」という言葉を使うと、厳密な実験をしていると勘違いされる。加えて、もっとまずいのは実験をしているから科学だ、科学的証明だ、という幻想が心の中に浮かんでくる。ここが一番やっかいなところで、この勘違いは博士課程の学生でも頻繁に起こる。それを避けるために<strong>科学哲学の知識が必要</strong>なのだ。ここをおろそかにしていると研究の有効性の証明が出来ない。「実験」は科学における本当の実験でない限り、<strong>禁句</strong>だ。また「わたしたちの実験の意味は」という<strong>言い換えも禁句</strong>。観察とかフィールドワークとか言えばいい。</p>
				<p>プロジェクトのrationaleを明確にして、自分の修士論文のrationaleを明確にする。<strong>ratinaleは図にかける</strong>のでそれを明確にする。自信がなければその図を壁に貼るとかする。そのrationaleの枠内で、独立変数と関数と従属変数を決める。そして関数・仮説・プロトタイプを明示的に記述する。明示的とは<strong>ホワイトボックス</strong>ともよばれ、ブラックボックスの逆で、この関数に入れるとこの答えが出るのは何故かを記述することである。</p>
				<p>以上が第１章作成の注意書きと、全体を書くということ、証明すると言うこと、へのコメントである。</p>
				<p>次回までに全体のドラフトを完成させる。第３章、４章、５章はもう書けるはずなので、どんどん書いてしまう。<strong>書きおしみ</strong>してはいけない。書けるところからとにかく書いてしまう。視点が定まり、メッセージの論理的な構造が決まれば、あとは速い。なので、とにかく書き切る。そして、その<strong>ドラフトを修正していく</strong>のだ。この<strong>修正の時間の方がドラフト執筆の時間よりも長い</strong>。ここを肝に銘じてこの<strong>時間配分を間違えない</strong>ように。</p>
				<p>さて、やっかいなのは<strong>第２章　先行研究</strong>である。次回の修士論文ワークショップではここを説明する。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>大人の英語講座　KMD流　Lesson ４</title>
		<link>http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/activities/20091207/832/</link>
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		<pubDate>Mon, 07 Dec 2009 01:52:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ok.kmd.keio.ac.jp/?p=832</guid>
		<description><![CDATA[				さて大体毎日英語の発音練習をするという習慣が出来てきた頃だろう。
				『英語耳ボイトレ』
				この本もだいぶなれてきたところだろう。ここで声の出し方をもう一度確認するためにLesson1からLesson7 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p>さて大体毎日英語の発音練習をするという習慣が出来てきた頃だろう。</p>
				<p><strong>『英語耳ボイトレ』</strong></p>
				<p>この本もだいぶなれてきたところだろう。ここで声の出し方をもう一度確認するためにLesson1からLesson7までをとおしてさらってみよう。歌のところが達成感もあるためつい繰り返してしまうことが多いと思う。しかし、大事なことは顔の筋肉を作ることである。またこの練習をとおして音のイメージというものをつかみ取るようにする。この練習は朝が良いと言われている。声量が大事である。教科書をもって両腕を伸ばし、CDに合わせて音読してみよう。暫く行っていると、一語一語舌が発音を確認できるようになる。あと、この英語講座は正しく英文を読めることが目的である。英会話ではない。発音練習は音のイメージを身体に作っていくことが目的である。繰り返すが、レッスン１から順番にLesson７までを何度も繰り返す。今週5回繰り返すことが出来れば上等である。</p>
				<p><strong>『マーフィーの法則』</strong><br />
				これは手こずっているかもしれない。かなり難しい、と感じたら次のように対応してもらいたい。</p>
				<p><strong>ステップ１：</strong> テキストを読むのがよく分からなければ、<strong>発音記号</strong>をつけてみよう。</p>
				<p>発音記号をつけるのは手間だが、<strong>辞書を引いて書き写す</strong>。英語の辞書は買っただろうか。購入して机の上に置いておいてもらいたい。英語勉強セットだ。<strong>鏡、メトロノーム、辞書</strong>。つぎに<strong>『英語耳ボイトレ』</strong>の<strong>発音バイエル</strong>をつかって、<strong>発音記号通り発音をしてみる</strong>。これは非常に効果がある。僕はジャズを歌うが、初心者の頃、ジャズの先生から発音記号を書き写してそれ通りに口をトレーニングするという方法を学んだ。英語発音の手引きの本が沢山あるが、<strong>音が繋がっているところをそのまま練習</strong>させようとするものが多いので、実際には役に立たない。battleshipは英語では＃＃＃と発音します（＃＃＃はカタカナ）みたいな話である。間違いではないが、子音と母音が組み合わさってしかるべき規則で音が変化していくので、そこを覚えてしまえばいいのだ。なのでそれを行ってみよう。発音記号をつけてそのとおりに発音をする。ちなみに、日本人風の発音でもかまわない。何となく練習しているうちに筋肉が動くようになる。鏡が役に立つ。</p>
				<p><strong>ステップ２：</strong>次に口をならす。</p>
				<p>一気に続けて発音するところは一気に発音する練習をする。これも実際慣れてくると意味の固まりを感じて発音できるようになる。難しいのはここからで、実は<strong>英語のスピードは僕たちが感じているより速い</strong>。このスピードで話せなくても良いが、聴けないといけない。何度も聞き返すとか沢山聴く、という方法が一般的だ。勉強しやすいためだろう。<strong>電車の中で聴いていればいい</strong>わけだから。だが、これでは<strong>聞こえるようにはならない</strong>。あるいはなるとしても膨大な時間がかかる。<strong>自分で発音をして、ナチュラルスピードで、拍に合わせて発音練習をして暫く立つと、何故か聞こえてくる</strong>。これが『マーフィーの法則で英語耳』の表紙に書かれている<strong>「３ヶ月であらゆる英語が平易にゆっくり聞こえ出す」</strong>という現象である。なのでスキーで急斜面を転がるようにとにかく口をならす。ひっかかるところがあればそこだけゆっくりと発音して、<strong>口の筋肉が動きを覚えたら早くする</strong>。</p>
				<p><strong>ステップ３：</strong>メトロノームを使う</p>
				<p>『マーフィーの法則』のCDの拍のスピードは大体６０である。これを40にしてみるとかなりゆっくりでらくになるが、それでも早いところは早い。拍に収めなくてはいけないからだ。<strong>収めるには子音を繋ぐ</strong>。おさまらないところに<strong>印</strong>をつけてみよう。そこを練習する。</p>
				<p>ちょっと細かく説明してみよう。</p>
				<p>３．If there is a possibility of several things going wrong, the one that will cause the most damage will be the one to go wrong. という文章がある。これに発音記号をつける。ここでは発音記号を表示できないで省略をする。次にこの文章を聞いてみる。</p>
				<p>そこで、CDもメトロノームも無しで、</p>
				<p><strong>If there is a possibility of several things going wrong, </strong><br />
				の文章を一息で言う。切ってはいけない。発音記号だけを続けて読む感じ。</p>
				<p><strong>the one that will cause the most damage will be the one to go wrong. </strong><br />
				ここも同じに一息で読むのだが、<br />
				<strong>the one that will cause</strong><br />
				がやっかいである。ここは<br />
				the one tha　<strong>twill</strong> cause<br />
				としてthat の最後のtをwillにつなげてしまう。twillはそのまま発音しても良いし、tを無音化してもいいが、省略しても音の長さは維持する。（ｔ）willという感じである。こうしないと拍に収まらない。</p>
				<p>most damage　も<strong>mos　tdamage</strong> となりここのｔは無音化しないと続けられないだろう。でも舌はｔの発音のポジションに置く。</p>
				<p>で一息でこの文章を言おうとすると、口の周りの筋肉がたっぷりと動くのが分かるだろう。ここがトレーニングされていないと早くしゃべれない。この練習をしているうちに文の固まりで、つまりプロソディで英語が聞こえてくる。聞こえているように発音しても耳のいい人は出来る。だが普通は無理である。なので口の形と筋肉を作っていく。</p>
				<p>これを松澤さんは<br />
				<strong>１）文章を意味のまとまりで区切る。<br />
				２）意味のまとまっている複数の単語を、まるで一つの長い単語のように、連続して発音する。<br />
				３）重要な単語は強くゆっくり発音する</strong><br />
				（35ページ）と指導しています。</p>
				<p>このあたりは<strong>出来なくてもやる</strong>、という態度が大事だ。そのうち分かるようになる。口の周りの筋肉が付かないとどうしようもないので、あきらめないでちょっとずつ繰り返して進めましょう。<br />
				<strong><br />
				『英文快読術』を読む。</strong></p>
				<p>今回も行方さんの本をパラフレーズして紹介したい。前回と重なるところもあるが、何度で繰り返しても良いので、また書いておく。今回は<strong>『英文快読術』</strong>である。15年ほど前に出た本で愛読していた。数年前に岩波の現代文庫におさめられたのでいまでも簡単に入手可能である。これをすこしKMD流にパラフレーズしておこう。</p>
				<p>自分で考えたことを相手に理解してもらうために英語を学んでいるだけではなく、人が考えていることを読書を通して理解するために英語を学んでいる。したがって、かなり高度な英語を読んでいく必要があるのである。この講座では多読も来週くらいから始めるが、この問題についても行方さんは分かりやすく説明している。<strong>快読とは、ナチュラルスピードで読んで１００％理解できている状態</strong>だ。この気持ちが良い感じが大切、ということである。</p>
				<p>大切なことは僕たちが普段触れている英語は難しすぎる、ということである。<strong>難しい英語を中途半端に勉強しても分からない</strong>。だが、そのことは日常英会話が出来ればいいという話でもないことである。<strong>易しい英語をしっかりとみにつけて本格的な英語が理解できるまでの正しい道筋が制度として確立していない</strong>、というところが問題なのである。なかなか痛快なのは大分前にベストセラーになった<strong>The Universe of English</strong>(1993)に関して、内容は良くできているが、英語を勉強するテキストとしては難しすぎると断じているところだ。こればベストセラーになるのは<strong>英語へのコンプレックス現象のあらわれだ</strong>とのべているところだ。で、行方さんは大学では入試が難しすぎると述べる。さらに痛快なのは大学のテキストが「<strong>素人のような在日英米人の軽いエッセイ</strong>」が幅を利かしているとおこるところだ。僕が大学に入った頃、教科書はこの手のどうでもいい英語に満ちていた。ジェームス・カーカップの書いた本など時間の無駄としか思えなかった。（本書では行方さんはカーカップに同情的だが）。あと、「<strong>総合教材</strong>」を批判する。これもなつかしいが、日常生活を舞台にデートしたり動物園に行ったり、みたいな教科書である。大学にはいってなぜこんな教科書を勉強するのだ、という感じだ。そして<strong>ビデオ教材</strong>も批判する。字幕に頼らないで映画を見ることが出来るという目的でつかわれているが、そんな難しいことは簡単にはできないとする。本当にそうである。1990年代の終わりだったと思うが、<strong>朝日出版社</strong>というところが出している英語の勉強雑誌に<strong>きちんと英文雑誌の記事を読む</strong>、みたいな連載をしたことがあるが、世の中、簡単な英語、ビデオでの英語学習ブームに沸いて、僕の連載はちょと浮いていたことを覚えている。</p>
				<p>行方さんの本が面白いところは、<strong>教養ある本格的な英語を吟味できるようになりましょう</strong>、と述べて、現状は難しい英語を勉強しすぎている、と切り返すところである。また一方で行き場のない英会話あるいは簡単な英文理解しか要求しないような英語教育も批判する。彼のポイントは<strong>ナチュラルスピードで英語を理解する</strong>、というところにある。優先するのはナチュラルスピードである。ナチュラルスピードで理解できるところまでレベルを下げて、英語を学び直そう、ということである。ここがポイントで、みな<strong>ぼんやりと難しい英語をいいかげんに理解しているだけ</strong>だ、というわけだ。</p>
				<p>前回も繰り返したが、ぼんやりしか理解していない一番の問題は<strong>自動詞と他動詞の区別</strong>が出来ていないことである。ここから初めてどのように大人が英語を学んでいけばいいか。行方氏の提案している方法はナチュラルスピードでの英文理解を簡単な英語で行う、というものである。彼は名作朗読カセットを進めている。多読が最近盛んになりいろいろな本がでている。これについても順次検討していきたいが、少ない単語数の文章を音読し、それを一方でナチュラルスピードで理解する。徐々に難易度をあげていく、という方法は、國弘先生も述べているように、おそらく大人が英語を学習するときのほぼ唯一の方法である。次に多読をあげている。一週間に最低一冊は読むことを薦めている。ようするに<strong>音読と多読</strong>なのだ。</p>
				<p>そのあと、正しい読解のための<strong>12のヒント</strong>をあげているので、それを説明していこう。日本人が分かりにくいところを説明しているところがこの12のヒントの素晴らしいところだ。</p>
				<p><strong>１：辞書を気軽に使う。</strong><br />
				これは前回も述べた。そろそろ辞書をそろえよう。</p>
				<p><strong>２：文脈・前後関係に気をつけよう</strong><br />
				これは論理的な流れを理解することである。誰が何を何処でどのようにおこなっているのか、それは何故かといったことに思いをはせるのである。ディスコースを再構成する、ということでもある。<br />
				<strong><br />
				３：一般常識、勘、想像力など。</strong><br />
				まあ、これは頑張るしかない</p>
				<p><strong>４：描出話法に注意する。</strong><br />
				これは小説やノンフィクションを読んでいるとき。誰が話しているのか、に注意する。慣れるとなんでもないけど、訳しながら読んでいると分からなくなる。</p>
				<p><strong>５：仮定法への配慮</strong><br />
				仮定法は非常に大切である。これに関してはあらためて説明したい。<br />
				<strong><br />
				６：時制を重視する</strong><br />
				現在形なのか過去形なのか、現在完了なのか過去完了なのか、これに注意を払わないといけない。論文を読むときもこれは大事。ここが音読をしていてきちんと意識できるようになることが非常に大切である。</p>
				<p><strong>７：イディオムに注目</strong><br />
				イディオムはどうやって勉強するか。これもあらためて考えたい。</p>
				<p><strong>８：自動詞と他動詞、比較級の否定</strong><br />
				ここはとても大事。感情をしめす他動詞の時が間違えやすい。他動詞の目的語はなにか、ということである。<strong>I was very frightened.</strong> と<strong>It was a　very frightening drama.</strong>の例が行方さんの本にはあげられている。おどろかせるという他動詞に対して、目的語が自分であれば、何かが自分をおどろかせた、となりそれが受け身になって、I was very frightened.となる。だが主語がドラマで自分がおどろいたのならfrightening (me)となる。amuse（おもしろがらせる）, bore（うんざりさせる）でも同じだ。ここはあまり英語が得意でない大学生や大学院生が本当に理解できていないところだ。他動詞なのにあきらかな目的語は省略されることもある。（92ページ〜93ページ）</p>
				<p>さて、もう一つ覚えておくと良いのが形容詞の比較級とnever とかnothingとかの否定語が同時に使われている場合。これもしっかりと理解しておくとぐっと楽になる。行方さんが紹介している例を挙げておこう。<br />
				<strong>I hear she has won the first prize in the speech contest. Nothing shows more clearly that her Englsih is excellent.</strong><br />
				これをみて<br />
				「何一つとして彼女の英語が素晴らしいと言うことを、もっと明らかに示すものはない」<br />
				と訳してはいけないのだ。だがこの間違いが多い。「彼女の英語が素晴らしいことは明確である」と訳せないのだ。それは<strong>比較thanが省略されていることが理解できない</strong>からだ。スピーチコンテストに一番になったこと以上に、が省略されて文章に見あたらないからである。</p>
				<p>この二つに注意するだけで、文章はびっくりするくらいはっきりと理解できる。音読で理解したい最初のポイントだ。</p>
				<p><strong>９：文と文の関係に気をつける</strong><br />
				これはコンテキストとディスコースの問題で、僕は分けて考えられないと思っている。論文の場合は特にそうだ。いずれにしても文と文は論理的に繋がっている。だがそれを<strong>繋ぐ言葉が省略されている</strong>。ようするに、わからなくなるのは省略があるからである。自動詞と他動詞の問題も同じだ。この場合は、接続詞がわかりきったときは省略される。こつは一般的なところからどんどん細かくなっていく感じを掴むことである。なぜなら、なぜなら、なぜならと繋がっていく感じがあり、<strong>いちいち接続詞が出てきこない</strong>のだ。また同じことを違った表現で言い直しているのに、<strong>in other words</strong>が無いときがある。ここは論文や専門書を読むときにも間違えやすい。</p>
				<p><strong>１０：筆者の姿勢と文の調子</strong><br />
				これは僕の言葉で言うと<strong>Voice</strong>である。著者は自分が書いていることが、賛成なのか反対なのか、好きなのか気に入らないのか、何を言いたいのか、を常に考えながら読む。これに気をつけるだけで文章の理解はずっと不覚なる。</p>
				<p><strong>１１：論理的な整合性をおいかける</strong><br />
				これはまさにディスコースであるが、もうすこし狭い議論をする、という場合もある。なぜならば、こうこうだから、といった形で論理的に展開しているときはそれをきちんと追いかける。</p>
				<p><strong>１２：深く読む</strong><br />
				ことば一つ一つを吟味するのだ。</p>
				<p>何度も繰り返すが、こうしたポイントを身体的に学ぶのがここで練習している音読なのである。来週からは多読を混ぜていくことにしよう。</p>
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		<title>修士論文の構成　情報哲学を持とう</title>
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		<pubDate>Sun, 06 Dec 2009 22:28:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Naohito Okude</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[activities]]></category>

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		<description><![CDATA[				修士論文工房もいよいよ追い込み。構成の指示をしたので、次は執筆に当たっての心構え。今回は長くて難しい。読んで、わからないところはワークショップで質問するように。
				プロジェクトを行って修士論文を書く場合はか [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				<p>修士論文工房もいよいよ追い込み。構成の指示をしたので、次は執筆に当たっての心構え。今回は長くて難しい。読んで、わからないところはワークショップで質問するように。</p>
				<p>プロジェクトを行って修士論文を書く場合はかなり注意が必要である。メディカルポケットは、数名で在宅用の新しいディバイスを開発した。このディバイスの構造、インターフェイスデザイン、を研究テーマに選ぶ場合は普通のコンピュータエンジニアリングの論文の形でいい。だが、どのようなインプットを選択するのか、どのようなアウトプットがいいのか、という研究も十分価値がある。そのための質的調査、とくに民族学的調査の価値をしっかりと論文にまとめることが必要である。アーバンメディアプロジェクト、あたらしいテレビプロジェクトなども同じである。関数概念をしっかりと理解すると、このあたりを整理できる。個別の修士論文指導をこれから行うが、学生は下記に目を通して情報哲学を意識して、各自の論文の焦点を明確にして、ドラフトの執筆をすること。</p>
				<p><strong>関数概念を確実にする。</strong></p>
				<p>f(x)=yというのが基本的な関数だ。このような表現を直接論文に書いてしまっては表現としてあまり美しくない。だが問題の整理としては非常に大事なので、関数概念をしっかりと理解しておこう。ｘが独立変数。この値をｆ（function)にいれると従属変数ｙが出てくる。たったこれだけのことだが、ｘだからｙという乱暴な議論を避けることが出来る。「かくかくしかじかの仕組み」があって、xを入れるとyが生じると考えればいいのである。問題は「かくかくしかじか」の仕組みである。伝統的には<strong>演繹法</strong>と<strong>帰納法</strong>がある。だが、どちらの方法もどうもしっくりとはこない。とりわけ、実際に調査研究をしていると、「正しいと思うけれど説明できない」ともどかしく感じているだろう。１００％正しい推論ができれば正しい、とまあ普通は考える。これを演繹法（deduction)という。<strong>真理保存性</strong>という難しい言葉を使う。だが、世の中には１００％正しいとはいけないけれど、多くのデータから一般化すると大体正しいと言うことがある。このように推論することを帰納法（induction)という。だが、この二つで推論できないことでも正しそうなことは沢山ある。それをどう証明すればいいのだろうか。</p>
				<p>基本的には<strong>仮説を立てる</strong>のである。この<strong>仮説が関数</strong>となる。仮説は現象を観察していて<strong>直観で立てる</strong>ことになる。科学史をみていても、科学者は突然理論を思いつくのだ。このメカニズムを明らかにしたのが<strong>C.パース</strong>であり、それを<strong>アブダクション</strong>と呼んだ。さて、そうしてうまくいくかもしれないと直感的におもいついて作った仮説を、論理的に矛盾のないものとして構築する。これは演繹の思考である。次にこうしてつくった論理的な仕組みを実際の現象に当てはめていってそれが有効なことを説明する。ここでは帰納法が使われる。つまり、<strong>多くの仮説を思いつき、もっともらしい仮説を選び、実感可能、観察可能な命題を抽出して、それを実験や観察で証明していく</strong>。これがアブダクションといわれる思考の流れであり、多くの科学がこの方法で推進されている。だが、この方法は科学だけではなくて、情報の世界にも適応できる。つまり物理的に成立していなくてもいいのだ。</p>
				<p><strong>２０世紀的発想：サイバネティックスと情報理論を慎重に扱う</strong></p>
				<p>このあたりを赤木昭夫氏の<strong>『反情報論』</strong>にしたがって詳しく説明しよう。まず赤木先生が批判的に指摘している<strong>「20世紀的発想」</strong>について説明したい。1960年代にIBMは<strong>360シリーズ</strong>を発表する。これを発表することでIBMはヨーロッパのコンピュータメーカを一掃してしまった。360は角度の360度を意味していて、何でも、つまり銀行口座の管理から、物流の管理から行うことが出来たのだ。<strong>コンピュータによる情報処理がなければデータは獲得できない</strong>とされた。大学には<strong>コンピュータ・サイエンス科</strong>が次々と作られていった。IBM360そのものは米空軍の<strong>SAGE</strong>と呼ばれた早期警戒システムからの転用だという。<strong>防空システムのレーダー信号や反撃命令の管理をしていたシステムを民間に転用</strong>したのである。</p>
				<p>この早期警戒システムは「<strong>シー・スリー・アイ</strong>」と呼ばれた。Cの三乗Iである。コマンド（指揮）、コントロール（制御）、コミュニケーション（通信）をインテリジェンス（情報）で束ねる、という考え方で作られていた。敵を偵察したり、ミサイル発射を探知するために多くの衛星が打ち上げられ地上レーダー網が整備され巨大な情報収集と通信のシステムが構築された。情報が戦争において勝利を導くカギだとされたのである。そして、ここからが大切なのだが、人間の活動を<strong>「通信と制御、状態の変化、計算」</strong>という枠に当てはめて考えようとした。（３２ページ）</p>
				<p>これを支えたのが<strong>ノーバート・ウィナーのサイバネティクス</strong>と<strong>クロード・シャノンの情報理論</strong>である。数学的な問題は僕の授業で演習も含めて詳しく説明しているので、ここでは割愛して、その意味だけを解説する。サイバネティックスは簡単に言うと目的にむかって自分の意思で向かっていく動物の行動と同質の動きを弾丸に与えよう、というものである。弾丸は撃ち出してしまえば、周りの状況に関係なく、ニュートン力学にしたがって飛んでいく。目標からそれていても只飛ぶだけである。これにたいして、目標からずれているということを弾丸に教えて、向きを変えてやることはできないかと考えたのだ。<strong>ずれていることを弾丸に教えるプロセスをフィードバックと呼んだ</strong>。どのように情報を戻して、どのように弾丸の向きを変えるか、ここを専門とする学問がうまれ、制御学となった。これはニュートン力学ではおもいつかない画期的な考え方だ。一方向にむかって移動している物体の動きを変えることができるわけである。これをサイバネティクスと命名して、研究会も作られた。赤木先生が紹介しているが、アメリカのデパートの老舗のメーシーズがお金を出して「<strong>メーシーグループ</strong>」が作られて、ウィナーに加えて、文化人類学学者の<strong>グレゴリー・ベイトソン</strong>、応用数学の<strong>フォン・ノイマン</strong>、<strong>情報理論のシャノン</strong>などが加わっていたという。サイバネティクスはいまはそれほど盛んではないが、システムと制御の問題は現在は普通に研究されている。ここで覚えておきたいのは、情報のシステムとして物事を見る。これは<strong>関数概念</strong>だ。そして、一連の動きを時間の流れに置く。ある時点で本来の目的と異なっている情報を入手したら、現在の動きを決定している過去の情報をアップデートして、未来の行動を決定する情報に置き換える。ということである。これが<strong>フィードバックの概念</strong>だ。街を歩いているときに次に何処に行けばいいかをいままで歩いてきた経歴をもとに知らせる、というえきれいプロジェクトのアイデアはサイバネティクスの情報の処理の方法で整理しないと、訳が分からなくなる。</p>
				<p>さて、もう一つ大切なのは<strong>シャノンの情報理論</strong>である。あることが起こる確率があるとする。次にAになる確率が８０％でBになる確率が２０％だったとする。ある時Bが起きたとする。確率が低いことが発生した。するといろいろな活動が制御のために必要になる。したがってBの情報量は大きいとしたのである。これを数学的にきちんとした形にして、二進法つまりイエスとノーで説明できる式にした。これによって目的からずれている程度の情報が手に入ったときに、その確率の逆数をつかって情報量を計算する、という定義式を作ったのである。</p>
				<p>赤木先生はただの定義式に「<strong>意味を持つと思われがちな情報の量という名前をつけた</strong>」ためにこれがメタファーとして一人歩きをしたという。情報理論ではなくて通信理論とするべきだったというわけだ。<strong>情報の組み合わせで世界は制御できる。このビジョンが２０世紀を支配してしまったという。</strong>情報を「伝授・貯蔵・組み替えが可能な記号とそれが表象するパターンによってこれまで説明不可能だった事柄がいかにも説明されそうに思える」と批判する。（３９ページ）これを赤木先生は「<strong>シンタクティック・インフォメーション</strong>」と呼ぶ。人工知能から遺伝子工学までがこの考えを踏襲しており、２０世紀の科学の一般的な方法として普及した。</p>
				<p>僕個人は<strong>サイバネティクスの数理的な成立とそれがコンピュータの置き換えられて実用になるところ</strong>は非常に高く評価している。だがそれが人工知能や遺伝子工学につかわれると疑問になる。赤木先生はこれを「<strong>多重比喩（カタクレシス）</strong>」の過ちとして指摘している。これはメタファーを二度重ねることだ。目的にむかって動く物理的な物体を、その物体の現在の情報を獲得して過去の情報を書き換えるフィードバックプロセスを加えることでよりよい確率で目的に向かっていく制御ができる。これは生物の行動をもとに作ったシステムである。このシステムの基本は情報の獲得と整理である。したがって、情報の獲得と整理のプロセスを上手に制御すれば生命が創造できるかもしれないと考えたわけだ。この考え方の奇妙さに２０世紀の終わりまで気がつかなかった。これに異をとなえたのが、哲学では現象学者の<strong>ヒューバート・L. ドレイファスで『世界内存在—『存在と時間』における日常性の解釈学』</strong>などで批判を繰り返した。この流れはインタラクションデザインの大きな影響を与えていく。一方生物学では発生論に興味が戻り、進化論をしっかりと議論する動きが出てきている。情報は情報に過ぎないのだ。</p>
				<p>物理学は情報理論の影響はそれほど受けていない。<strong>リチャード P. ファインマン</strong>は<strong>『ファインマン計算機科学』</strong>でチューリングマシンや情報理論について説明しているが、最初に計算機科学は科学といっているが科学ではないけど、面白いし便利だといった趣旨の文章を書いている。生物の化学的な反応を通信回路のメタファーにみたてる生物学と物体の状態のたとえとして情報が使われる物理学。この<strong>二つの学問の通底に一般的な情報学を考えることは不可能</strong>ではないか、というのが赤木先生の議論だ。</p>
				<p>僕が見ている修士論文で<strong>サイバネティックス系の情報システム</strong>を作っているチームが多い。そこにおける情報活動のシステムの記述をメタファーとしてより大きな社会行動の記述に展開してはいけないのである。人間の行動の情報を獲得して、その情報を分析して新しい情報を作り出す。この仕組みを論じるならそれだけを論じる。次にその情報を複数集めて分布を見て、そこから別の情報を生み出すのなら、そこだけを論じる。そして最初のシステムと次のシステムを連携させてより大きなシステムをつくるなら、それに焦点をあてて、その大きなシステムの入力は何か、出力は何かに注目する。<strong>情報の入力と加工と出力をあつかっていることを忘れてはいけない。<br />
				</strong><br />
				<strong>２１世紀的思考に踏み込む　確率論的な世界観と意味の問題を慎重に扱う</strong></p>
				<p><strong>その１：確率論的な世界観</strong></p>
				<p>しかし、と思うだろう。そうして出てきた<strong>データに意味を人間は、すくなくとも「実験を行っている我々」は見いだしている</strong>ではないかと。実はここが非常に大切なのだ。科学哲学のことを考えなくてはこのややこしいところは解けないのである。ある意味、<strong>科学哲学からの決別</strong>といってもいい。ここからが２１世紀的思考のはじまりである。</p>
				<p>哲学とは人間が考える方法について考える学問であり、本来はすべての学問を網羅するような性質のものであった。だが２０世紀に入って学問分野が多様化した。爆発的に増えていく学問に対応した哲学が必要となっていった。赤木先生はこのあたりをまとめてXの哲学と言っている。Xはそれぞれの学問分野である。分野ごとに哲学の作業が行われる。物理学なり生物学の哲学を論じることになるのだ。その作業はXが何であるかを問いかける「<strong>存在論</strong>」、なぜXを認識できるのかの「<strong>認識論</strong>」、善悪の基準を問いかける「<strong>倫理学</strong>」、そしてその分野の大前提を問いかける「<strong>形而上学</strong>」がある。さて、情報の問題を考えるに当たってやっかいなのは、情報の構造（記号情報と赤木先生は呼ぶ）を<strong>科学哲学</strong>が論じてきたことである。</p>
				<p>科学哲学は科学とは何かを問いかける哲学である。自然科学とそのほかの科学との違い、および偽科学との区別が大きな役割であった。科学の存在論である。また科学の倫理的な面も議論してきた。一方、科学の認識論、すなわち科学的なものの見方に関してはあまりきちんと議論されてこなかった。記号情報が科学の方法や発想手法としてふさわしいのかどうかの検討がいままで甘かったのである。もっと言うならメタファー以上の価値はなかったのではないか、と赤木先生は問いかける。そもそも<strong>情報と科学は関係ないのではないか</strong>というわけだ。</p>
				<p>実はここが一番大切な点である。コンピュータ「科学」は科学哲学が定める科学ではない。ほとんどのコンピュータ研究者は科学者だと思っているだろう。いや、言い方を変えた方が良い。<strong>科学的思考をしているのが大半のコンピュータ研究者だ</strong>。だが、これが決定的に間違っている。<strong>情報は科学の扱う対象ではない</strong>。これが赤木先生の意見だ。では情報とは何か。ここからコンピュータを議論するには科学哲学は<strong>情報哲学</strong>にバトンを渡さなくてはいけない。情報の存在論、認識論、倫理学、形而上学を考えていく必要があるのだ。</p>
				<p>まず<strong>存在論</strong>から。この分野で著名な<strong>ルチアーノ・フローリディ</strong>の説によると、情報とは、還元論、反還元論、非還元論に分けて論じられてきた。還元論はすべてを情報で見ようという、まあコンピュータの専門家の多くがもっている考え方である。シャノンの通信理論ですべて説明する、という感じだ。SFCが開設され、僕は赤木さんと一緒に教えることになるわけだがそのとき<strong>初めてコンピュータの専門家と一緒になる</strong>。彼らがつかう言葉、たとえばコミュニケーションやデータ、が社会科学や人文科学の意味と全く違うことにおどろくと共に、ある意味同じ意味で使うのもびっくりだった。つまり<strong>コミュニケーション</strong>とは情報が電気信号で伝達することでありまたそのメカニズムでもある。お互いの心を触れあうとか気持ちを伝えるということとは関係がない。これも驚きだが、次に人文科学的なコミュニケーションという現象も、通信理論的なメカニズムとして見ている。なかなかのショックであった。これに対して、反還元論がある。が情報が何か別の概念に置き換わるだけで、たいした説得力を持つわけではない。で、大切なのは非還元論である。情報は実体として存在していないとするのだ。情報とは周辺と周辺が拮抗するネットワークと考える。つまり<strong>情報とは「解釈、力、物語、メッセージ、メディア、対話、構築されるもの、商品</strong>」（７２ページ）などだとするのだ。</p>
				<p>こうなると、<strong>情報とはデータに意味を加えたもの、あるいは受け手にとって意味があるように処理されたもの</strong>、ということになる。データが中立であって、そこに人間が意味を加えている、という考え方も出来るが、これはデータ万能主義であり、データの中立性を前提としている。つまり非還元論ではこの問題はうまく解けない。赤木先生の言葉を借りると「情報とは意味の生成と受容の一つの特異な形態ではないか」ということになる。</p>
				<p>さて、ここからが本番。意味の生成と受容に関してもサイバネティックスの流れは一つの考え方を示している。それが<strong>ゲームの理論</strong>だ。フォン・ノイマンとモルゲンシュテルが考えたもので、双方の打つ手と対応する利益を表の形で一覧できるようにして、それぞれの利益が最大になるようになるようなゲーム、つまり始めるときに戦略の全貌が決まっているゲームを想定して、それを「<strong>完備情報ゲーム</strong>」と呼んだ。つぎにプレイヤーが提携すれば最大の利益がでるにもかかわらず提携しないという<strong>非協力ゲームの理論</strong>が<strong>J.ナッシュ</strong>によって提案された。これを<strong>ナッシュ均衡</strong>と呼ぶ。この二つとも人間は合理的な行動をすることを前提としているが、そうでないときにもモデルを成り立たせる試みがなされた。これが<strong>JC・ハルサーニ</strong>による「<strong>不完備情報ゲームの理論</strong>」である。これによってゲームの理論の応用可能性が高まった。</p>
				<p>「不完備情報ゲームの理論」のポイントは<strong>確率をとりいれていること</strong>にある。赤木先生の説明を引用する。<br />
				「プレイヤーそれぞれが選好と信念の組み合わせ（タイプとか属性ベクトルと呼ぶ）を持ち、そのうちあるタイプをある確率で選び、それをもとに打つ手を選ぶとする。それに対応して相手は自分のタイプをある確率で選び、それをもとに打つ手を選ぶようになる。このようの想定するならば、<strong>確率分布に応じて決まる確率分布、つまり条件付き確率分布の連なり</strong>として、双方の利得を定める利得件数を規定することができる。」</p>
				<p>これで分かっただろうか。ちょっと難しいが、双方が自分の最適解が出るように戦略を組み他立て、あとは最適解（均衡）を計算する。すべてのプレイヤーのタイプのあらゆる組み合わせを一つの確率分布として記述する。その場合、互いの卓立は相手の確率を条件として決まるので、<strong>条件付き確率、つまりベイズ確率になる</strong>。それぞれのプレイヤーが確率を持っている。一人のプレイヤーが学習によって情報の中身を更新していく。</p>
				<p>このことは何を意味するだろうか。実はある意味「<strong>情報の希少性</strong>」を意味するのだ。財物の希少性が経済学の基本で、それにひきかえ情報はつかっても価値が減らない、つまり希少性がないとされてきた。しかし、１９７０年代から始まる<strong>情報経済学</strong>は不完備情報の経済学であり、情報は従来の経済的な財ではないというとこから議論を展開した。最初は<strong>情報は公共財に近く、情報の消費は競争を招かない</strong>という視点から研究が始まった。また同じ情報であれば人は繰り返し情報を購入することにならない。したがって市場に出回っている情報は不完全情報である。だから、「評判」が大事になる。こうした仕組みをまとめて<strong>J.E.スティグリッツ</strong>は次のように述べているという。</p>
				<p>「現在では次の事実が認められている。すなわち、情報は不完全であり、情報は高価であり、情報の重大な不均衡が存在し、その不均衡の度合いは企業や個人の行為によって影響される。」</p>
				<p>情報には価値がある。これが情報経済学の教えるところである。金融取引で<strong>ケインズ</strong>はこのことをうまく説明していると赤木先生はいくつかの例を紹介している。なかでも美人コンテストの例が興味深いという。大切なところなので、ここも引用しておこう。</p>
				<p>また比喩を少し変えていえば、玄人筋の行う投資は、投票者が１００枚の写真の中からもっとも容姿の美しい六人を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みにもっとも近かったものに商品が与えられるという新聞投票に見立てることが出来よう。この場合、各投票者は彼自身がもっとも美しいと思う容貌を選ぶのではなく、他の投票者の好みにもっともよく合うと思う容貌を選択しなければならず、しかも投票者のすべてが問題を同じ視点から眺めているのである。ここで問題なのは、自分の最善の判断に照らして真にもっとも美しい容貌を選ぶことでもなければ、いわんや平均的な意見がもっとも美しいと本当に考える容貌を選ぶことでもないのである。われわれが、<strong>平均的な意見はなにが平均的な意見になると期待しているのかを予測することに知恵をしぼる場合</strong>、われわれは３次元の領域に達している。さらに４次元、５次元、それ以上の高次元を実践する人もあると私は信じている。</p>
				<p>どうだろうか、僕はびっくりした。相場師がお互いに裏をかきながら投機をおこなう。命題が真か偽かではなくて、命題に対する「態度」が意思決定の上で大切になる。<strong>情報＝命題＋命題に対する態度</strong>なのだ、と赤木先生はまとめる。</p>
				<p>デリバティブなどネットワークをつかった金融取引は情報が枯渇している状態でディラー達がお互いを騙し合う世界と言っていい。情報の不均衡が価格差を生む通貨取引の様な修羅場では情報の中身はみんな知っていることで、その態度だけが問われる。そして、ネットワークを通じて短時間あるいは一瞬で関係者の間で情報が循環する。このばあいは「態度」だけが循環する。</p>
				<p><strong>その２　意味とは　科学的実在論からの考え方</strong></p>
				<p>さて、コンピュータネットワークに繋がっている人間の「態度」を確率過程で計算する方向の背景について今まで話してきたが、ここですこし視点を変えて、<strong>言葉の意味を人はなぜ理解できるのか</strong>、という問題についてに赤木先生は議論を進める。<br />
				言語の意味を人間は何故理解できるのか。脳科学も手も足も出ない世界だという。そこで意味の生成過程をしらべ、その逆向きが意味の把握過程とする方法が採られている。<strong>科学としての説明は出来なくても、かなりのところまで論理的に説明しようとするのが言語哲学</strong>である。<strong>フリートリヒ・フレーゲ</strong>や<strong>バードランド・ラッセル</strong>は<strong>論理的原子論</strong>の立場に立った。<strong>文の意味は一義的に計算される</strong>とした。ラッセルに学んだ<strong>ウィトゲンシュタイン</strong>も当初はこの考えにたち<strong>『論理哲学論考』</strong>を<strong>１９１８年</strong>に執筆して、「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして論じ得ないことについては、ひとは沈黙せねばならない」と宣言した。だが、その後ウィトゲンシュタインは意味の計算主義に疑問をもち、「<strong>言語ゲーム</strong>」という考えを持ち始めた。後期ウィトゲンシュタインと呼ばれている。死後<strong>『哲学探究』</strong>（１９５３）としてまとめられる。ここでは<strong>言葉がつかわれる状況がゲームにたとえられている</strong>。ゲームは多様であって、似ていても違うと述べた。赤木先生は以上をふまえて「最終的に、ウィトゲンシュタインは、言葉の意味は、使われかたによって創成され、言葉が使われる状況とゆるく結ばれていると結論した」と述べている。</p>
				<p>コンピュータと人間がインタラクションをしているときに、<strong>人間のコンテキストによって言葉の意味が変わってくる</strong>。この視点は人工知能研究の前提を覆すものであった。<strong>テリー ウィノグラード『コンピュータと認知を理解する—人工知能の限界と新しい設計理念』</strong>は人工知能研究者の先端研究者が、意味の世界へ大きく舵を切った本である。いま我々が研究しているインタラクションデザインはこの流れをくんでいることははっきりと意識しておく必要がある。</p>
				<p>さて、コンテキストのなかで意味が規定される、となると、言葉に対するアプローチが大きく変わることになる。ウィトゲンシュタインはコンテキスト（言語が使われる状況、それを彼はゲームと呼んだ）に注目したが、言葉が発生する行為に注目したのが<strong>ジョン・サール</strong>である。発話という行為がなりたつさまに注目したのだ。これを<strong>志向性</strong>と呼んでいる。いずれにしても、<strong>意味は実際の使用によって生じる</strong>、としたのである。文法ではなくて、言語行為によって意味が生じるとしたのだ。この考え方を情報の問題に適応するとどうなるだろうか。</p>
				<p>サールは自然科学の立場をとると明言して、この問題にアプローチをする。<strong>志向性は人間の生物学的な特性として存在する</strong>とするのだ。人は<strong>欲求と信念</strong>という基本的な志向性を持ち、<strong>信念、仮説、欲求、期待、恐れ、知覚、記憶、意図、思考過程</strong>が含まれる。<strong>科学的実在論</strong>で武装しているサールの議論はなかなか面白い。認知科学が科学として緩いところを指摘しているからである。人の脳が外界と関わるときに、赤木先生の言葉を引用すると「<strong>生物的因果の形式として、また表象の形式として、まず情報という形式にならざるをえない</strong>。」としている。またサール自身は情報について次のように述べている。<br />
				「認知科学に親しんでいる読者は、ここで志向性についてかたられていることが、認知科学では「情報」として知られる議論だということに気づくだろう。ここでは「志向性」という言葉を採りたい。なぜなら、一貫して「情報」という言葉は、一方では純粋に観察者から独立した心的意味をもち、他方では心的ではないが観察者が関与する意味をもち、両義的だからである。この両義性は「志向性」にも生じ得る。</p>
				<p>と述べている。</p>
				<p><strong>脳科学をふまえて、コンピュータと人間のインタラクションを考える</strong>。これは非常に大事なアプローチである。ここを研究テーマにする学生は科学的実在論をふまえて議論をたてるように。Wikipediaの科学的実在論のところは参考になる。僕が読むように薦めている、<strong>戸田山和久『科学哲学の冒険』</strong>はその立場から書かれた科学哲学入門書だ。わたしたち人間の認識活動とは独立して、世界の存在や秩序があり、世界に存在するものや、それを統べる秩序について、私達は正しく知ることができるはずだと考えるのが科学的実在論である。<strong>この立場をみとめると、コンピュータと人間のインタラクションは自然科学の対象になる</strong>。きちんとした方法論をつかって、先進的な研究をすることがKMDでは可能である。興味のある学生は博士課程で稲見先生の指導を受けることをすすめる。だが、意味の問題を人間の志向性とするだけでは、実は十分ではない。<br />
				<strong><br />
				社会的経験から意味が生み出されていく</strong></p>
				<p>ここで議論は初めに戻る。情報の問題を考えるときに、コンピュータを使って情報を処理していくプロセスが生物が何か目的を持って動いているプロセスに似ていたため、実際に生物はそのように動いているのだと思い、コンピュータの中でデータを処理をするとなにか意味が生まれてくるのだと誤解した。サイバネティックスの初期の話だ。これはここ２０年ほどで徹底的に批判された。合理的システムが人間の合理的知性を反映しているということから合理的システムを作る合理的な自分の頭の良さによっていた認知科学の初期の研究者たち（って分かりにくい書き方だなあ。<strong>ミンスキーとかパパート</strong>のことね）の仕事もいまではあまり利用されない。しかし、最初って<strong>確率過程</strong>だったのではないか？という話だ。シャノンは確率過程の複雑な構造が２進法の指数関数を組み合わせていってほぼ解ける、としたのではないか？この仕組みを生物とか物理現象とか考えないで、<strong>情報を処理する仕組み</strong>として考える。かんなとかドリルみたいな<strong>道具</strong>である。あるいは書棚でもいい。そうするとなかなか便利な道具だ。そして思い切って、<strong>科学の外</strong>に置く。したがって科学的実在論の範囲ではない。そう考えたときに非常に大きな可能性が生まれる。つまり<strong>データをあつめて、情報を生成するメディアの誕生</strong>である。ここでことさら強調しなくてもすでにそのようなサービスは多く存在している。これが何なのかを考える情報哲学が必要、という議論である。</p>
				<p>赤木先生はここに情報哲学を置くことを提案している。サールもこの段階では同じことを言っている。<strong>生命現象（脳）と心的現象（言語）と社会現象（例えば貨幣制度）を志向性の概念で通底させる</strong>ことが彼の最大の関心事だと、赤木先生は書く。（１１０ページ）だが、もう一歩進めたい、と赤木先生は思考を進める。サールは志向性の基本を脳が信念と欲求を求めることとした。信念が欲求に負けることもある。つまり誤ったデータが採用され誤った意味が付加される。誰かに騙されたわけではなくても、自分で新たに意味を作り出している。あるいはまったく見たことのないデータの集まりから意味を感じ取っている可能性もある。こうした現象を説明するためにサールは「<strong>適合の方向（direction of fit）</strong>」と「<strong>充足条件（conditions of satisfaction)」</strong>という基準を作ったという。これはかなり凄い。</p>
				<p>信念と欲求が一致していない場合、人間が<strong>どちらを優先させているか</strong>が問題になる。信念が優先しているとすると、これが外界に対して一致しているかどうかが問われる。すると、<strong>信念を外界に適応させようとする</strong>充足条件を求める。自分の信念を修正してくる。ところが欲求を優先させると、外界が欲求と一致するかどうかの検証を初め、合致するように外界を適合させていく。赤木先生は経済活動をとりあげて「自分に有利なように市場を変えようとする。そうなるよな情報をつくり流すことになりやすい。それによって利益を得ようとする。情報独占で市場独占を企図することになりやすい。」つまり、仲間を出し抜き、群衆の裏をかくのが経済市場で活動する人間であり、社会の倫理基準を超えれば、逮捕されることになる。<strong>欲求の志向性は外界を変えようとする</strong>。</p>
				<p>さて、ここまで整理してみよう。情報の処理の方法で、時間軸の中を移動している（人間が１時間ネットワークに繋がったコンピュータとインタラクションをしている。同じような人が沢山いて、データを入力したり出力されたデータをみて、それに意味を感じて何らかの活動をして、またデータを入力するということをしていれば、人間もコンピュータも一定方向の時間の流れの中に生きていることになる。）ばあい、システムと外部を人間がインターフェイスしている。ちょっとめんどくさいので流れを説明しながら話をする。<br />
				<strong>ステップ１</strong> ネットワークにデータ（命題）が蓄積されている。<br />
				<strong>ステップ２</strong> そのデータ（命題）が利用者に送られる。<br />
				<strong>ステップ２</strong> その利用者はそれに意味を感じて行動する。（命題＋志向性）<br />
				<strong>ステップ３</strong> 行動した結果がネットワークに送られ蓄積される。<br />
				<strong>ステップ４</strong> そのデータが処理される。命題＋志向性があたらしい命題に変換される<br />
				<strong>ステップ５</strong> 利用者に送られ、利用者はそれに意味を感じて行動する。（新しい命題＋志向性）</p>
				<p>という感じだ。この流れにおいて、命題＋志向性が新しい命題に変換されるにあたり、前もってきまった規則があるわけではない。<strong>変換の規則をアルゴリズム</strong>というが、前もって決まっているわけではなくて、たまたまそうするのが最適と判断されただけである。ここが非常に大切なのだ。<strong>何も情報のないところから探索がはじまる</strong>。</p>
				<p>ここまで辛抱強く読んでくれたら、ネットワークにつながっている多数の人間（利用者）が自分でデータをコンピュータに入力して、それを集積してなんらかの処理をして利用者に戻すという、GoogleやAmazonのサービスが実はとてつもない<strong>情報生成メディア</strong>だということがなんとなく分かってくれただろうか。最初は金融市場のコンピュータ化だろう。いやそのまえに核ミサイルを巡る情報戦がその原型か。そこにあるのは科学的合理的志向ではなくて、欲望とイデオロギーがうごめく社会だ。このあたりは<strong>デビッド・ワインバーガーの『インターネットはいかに知の秩序を変えるか』</strong>に詳しい。だが、この無秩序のデータの蓄積からなるネットワークに、ひとたび人間が関わると、<strong>人間はただのデータに意味を感じて、それをネットワークに戻す</strong>。するとその情報がまたデータになって、別の人間に渡され、そこでまた意味を人間が感じてといったことの繰り返しになる。<strong>データしかないところで模索がはじまる</strong>。複数の人間の志向性が入り交じってネットワークを形成していくわけだが、サールは志向性を成り立たせる充足条件がネットワークできまってくるとして、それを「<strong>バックグラウンド</strong>」と呼んだ。これを赤木先生のまとめを引用するとそれは「<strong>人間の外界に対処する方法、態度、能力の総体</strong>」である。</p>
				<p>さて、赤木先生の『反情報論』はここで終わる。最後に情報基礎論の構想が説明される。そもそも情報は命題＋志向性なのだから曖昧で個人的で混乱している。情報を合理的な命題としようとする企ては失敗し、合理的な命題を自然現象と組み合わせる科学とは袂を分かった。だが、情報は社会を行き交う。真であろうとなかろうと、人々は命題を見ると、自分のコンテキストあるいはバックグラウンドに照らし合わせて、脳の志向性にしたがって、意味を感じている。だが、命題に志向性があわさった非常に主観的な情報がある程度あつまってくると、パターンが生まれてくるのだ。これは前もってアルゴリズムで生成するというものではなくて、<strong>フィードバックを繰り返しながら時間をかけていくとある種のパターンが生まれてくる</strong>。赤木先生は科学技術や科学理論の解説者としてNHKで長年活躍してからSFCの創設に参加されたのだが、英文科の出身である。<strong>T・S・エリオット</strong>の詩をあげている。これがまさにどんぴしゃり。（あたりまえか、それで引用しているのだから）<br />
				<strong>Where is the Life we have lost in living?<br />
				Where is the wisdom we have lost in knowledge?<br />
				Where is the knowledge we hve lost in information?</strong><br />
				(T.S. Elliot, The Rock, 1934)</p>
				<p>だが、このアンチモダニズムの表現の背後に別の世界が広がる。毎日忙しく日々をおくるなかで経験によって身に付けた知恵を知識として整理して誰にでも使えるように提供したところ、各自が勝手にそれを使ってしまい、知識を生活のために活用するきちんとした知恵を持っている人が少なくなり、良き社会が無くなってしまった、というのがエリオットの嘆きなら、勝手に知識をつかい（自分で意味をつくり）活動しているうちにネットワークの中に新しい社会とそこでの生活と、添えを支える英知と知識がそろってきた、というデジタルユートピアがいってみればgoogleの考える世界だ。</p>
				<p>だが、もうすこし未来は明るい。情報はコンピュータの中にある。知識もコンピュータの中にある。知恵あるいはスキルはコンピュータと人間の間にある。活動（living)は人間の側にある。生活もそうだ。バックグラウンド、コンテクスト、言語ゲームの世界だ。だが情報は人間の志向性と知識（あるいは命題）が合わさったものだ。<strong>意味を感じる人間が生活をしてそのバックグラウンドの一部をコンピュータの中に戻すスキルを持っている</strong>、という世界は僕からすると、単一のシステムによって支配されている世界とは随分ちがった感じがある。それは各個人が主観的に行動していてもそれを含み込むようなシステムがある世界だ。そのようなシステムを人間は意識して作ることは出来ない。個々人が答えのない状況で試行錯誤している経験が蓄積されてこうしたシステムの構築が行われる。</p>
				<p>この仕組みは情報処理を行うためのフィードバックと基本的には同じ原理だ。何回かフィードバックをしているうちにパターンが生まれてくるのだ。そしてパターンのある情報はより意味があり、また外界にもフィットしている。こういった新しいメディアをつくるためにも<strong>情報哲学の構築が</strong>いま必要なのである。</p>
				<p>アーバンメディアチームで、移動体を持って街を歩いているうちに、みなが街をより楽しく楽しめるようになる、というサービスを開発したチームは、街を楽しみたいという欲求が実際の外界である街をかえるというサービスを構築していることになる。実際に街を変えるわけにはいかないので、端末にデータを提示して、街を楽しみたいという要求がある人はそれを見て意味を感じる。というサービスだ。街を歩くということと、端末に提示されているデータに意味を感じているというユーザーの調査がシステムの設計には必要である。この調査を担当したメンバーはこの問題に焦点をあてて論文を書くこと。移動するという人間の活動からパターンを生成して、町歩きサービスを生成するときのデータとする仕組みを開発したメンバーは移動のアナログセンサーデータをフーリエ変換してパターン生成システムに入力するところまでに焦点を絞って論文を書く。またフーリエ変換されたデータをベイズネットワーク処理をしてパターンを生成させるアルゴリズムを作成したメンバーはそこに焦点をあてた論文を書くこと。利用者の行動パターンとそのほかの知識情報をあわせて、集合知を生み出すサービスを開発したメンバーはそこに焦点をあてた論文を書くこと。そして、そのデータをユーザーに伝達するアプリケーションを開発したメンバーは、まだ一年生なので、論文は書かなくて良い。このテーマで学会論文でも書くと良い。アプリケーションを使うユーザーと街を歩くユーザーの間の関係、つまりは街を楽しみたいという志向性をもったユーザーが街を変える（街に関する新しい情報が端末に提示されたときに意味を感じる）に関しては、ユーザーの調査をおこなったメンバーが論文にすること。ここが注意点だ。</p>
				<p>メディカルのチームも同じだが、開発した端末をつかうユーザーとして２種類設定している。患者と医師、医療従事者側である。データに対する志向性がことなるので、それぞれ別の論文としてまとめること。端末はそれ自体に焦点を当てて、何がコンセプトか、何を証明するのかを明確にすること。サーバー側のサービスに関しては、アルゴリズムと言うよりはいままで活用できなかったデータがつかえるようになって、多様な人が意味を感じるという仕組みに焦点を当てる。</p>
				<p>焦点をあてて、議論をしぼっていくわけだが、そのためにこのくらい長くて複雑な知的作業が必要だ、ということが分かればこの段階では良い。このあとは博士論文の世界だ。</p>
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